新居浜・別子銅山跡 日本を支えた産業の歴史:秋カボチャさんの旅行ブログ
マイントピア別子という名の施設
これは鉱山鉄道で、ゆっくりゆっくりと観光坑道へ向かいます。
お客さん、トータルで5人。
まだ時間が早いからか・・・
とっても寒いからでしょうか。
観光エリアに到着です。
鉄道を降りると、目の前に銅を採掘していた頃の施設・設備が置かれています。
これはカゴ電車って書いてありまして、ここに人を乗せていたそうです。とっても小さいというか狭いのですが、何人乗っていたのか確認しませんでした。
観光坑道へ入っていきます。
ここは、外気温より少し高めだそうで、でも9.1度なんだな。
ここから観光ボランティアの尾方さんという方が、案内を申し出てくださいました。
もう一名の男性と一緒に案内してもらいます。
観光坑道、というくらいですので、本当に使われていた坑道じゃないのです。
でも良く掘ったな、という感じで結構長いです。
背負う人と、掘る人がいたようです。
もちろん坑道内は真っ暗ですので明かりが必要。
当時何をつかっていたかというと、「さざえの貝殻」の中で「鯨の油」を燃やしていたとか。
この人形が手に持っています。
怖い話・・・こういう仕事ですから、いつ崩れて亡くなるか分からない、死と背中合わせなのです。
彼らの服は襟に黒い帯が入っていますが、これを引っ張って外すと、死装束になるということです。
ちっこいジオラマもありまして
これは、坑道内でたまった水を掻きだす仕事を担当していた人たちの様子。
これをやらないと事故に繋がるんだそうですよ。
緒方さんが言うには、「1日に2時間掻き出せれば、立派に仕事をしたレベル」とか。
どれだけ重労働だったかがよく分かりますね。
坑道の出口のすぐ脇に、お風呂がしつらえてあったというジオラマ
この写真では裸になっているのは男だけですが、左の屏風のような板の裏には女性が。
尾方さん曰く、「会社がケチって、男女2つのお風呂を1個で済ませた」ということです・・・。
夏はまだしも、冬は相当寒かったと思います(写真を撮りつつ、私も結構寒い)。
お風呂はゆっくり入りたいですよね。
採掘された銅は、精製作業を繰り返して純度の高い銅になります。
それを「住友のある」大阪まで運び、重さを量って国に13%の税金を納める。
さらに、この頃は鎖国時代、わざわざ長崎まで運んで外国に輸出していたんですって。
愛媛→大阪→長崎・・・
奥の一段高いところで帳面をつけているのがお役人。
ここで一緒に見学していた男性が尾方さんに尋ねた。
「13%を国に払って、残りは住友が取れるんですか?」と。答えはイエス。
そりゃあ、一大財閥が築けるはずですわ。
なにはともあれ
当時の人たちの血のにじむような労働のおかげで日本はお金を手にすることが出来た、そういうことなのです。
たまたまここは住友ですが。ちなみにこの施設は、国と住友が半分ずつ費用を出し合って作ったとのこと。いまでも銅の混じる水がでるため、浄水が欠かせないとか。
これは、当時の労働者が背負っていた粗い銅。
30キロ・・・米袋3つ分とかうちのワンコ2匹分とか、つまらないことを考えてしまいました。
この鉄橋は、左右対称じゃないため、珍しい存在なのだそうです。
全然列車が動かないので、歩き出し・・・たら列車も動いてきた。ちぇっ。
寒い中、とぼとぼと尾方さんのお話を聞きながら観光です。別子寒いなあ。
奥のレンガの入り口の上に、「第四坑道」のような文字が刻まれていました。
なんでも、住友の第15代が書いたとのことで、たいそう達筆です。
日本人ももう少し字をきれいに書くようにしないと恥ずかしい。 (>オット)
鉄橋の脇を通る薄青の管は、先に書いた「銅の混じった水」を地元の方に害のないように浄水するために運ぶ、専用のパイプだそうです。
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別子銅山開坑記念日の5月9日、別子銅山記念館では、天窓から差し込む太陽光とともに、開坑日を祝うイベントがあった。記念館の展示室の天井には直径約40センチの穴があけられ、別子銅山が開坑許可(1691年)を受けた5月9日の正午に日光が差し込むように設計されている。...(by ローカルニュースの旅 on 2010年05月10日 19:12)
別子銅山記念館では、住友グループが283年にわたって経営してきた銅山の歴史を保存展示している。昭和30年代には、「天空の城ラピュタ」に登場する鉱山のような賑わいだった。≫開坑記念日のイベントに関する情報を追加しました。...(by ぱふぅ家のホームページ on 2007年12月22日 14:55)