東海道本線歴史的痕跡探訪記 〜根府川-熱海間編〜:横浜臨海公園さんの旅行ブログ
熱海線は国府津-小田原間を皮切りに延伸を重ね、大正11年(1922年)12月21日に真鶴駅に達し、大温泉地たる熱海への連絡は真鶴駅前から熱海軌道組合が運営する軽便鉄道に依り執り行われる。
このまま建設工事が順調に進めば翌大正12年(1923年)10月1日に湯河原駅まで開通が予定された。
然し、大正12年9月1日に突然襲った関東大震災は震源地が至近だった事も手伝い、該沿線に重大被害を生じせしめた。
特に根府川(ねぶかわ)駅では震災発生当時、地震動と共に下りホームに地割れが生じ、当時ホームに於いて下り旅客第109列車到着監視の為に立番中だった根府川駅職員 剣持某氏は地割れの中に吸込まれ圧即死し、駅裏の片浦山が大崩落して根府川駅、及び、入線中の第109列車全部が土砂に呑込まれながら海中に押流され、死者行方不明者112名、負傷者13名を出す大惨事となった。
他方、根府川駅で交換予定だった上り旅客第116列車は到着が約90秒遅延していた事が不幸中の幸いの結果をもたらし、賽ノ目隧道(さいのめ ずいどう)國府津方坑門で地震動に遭遇し、牽引機関車が坑門上部から崩落した土砂に拠り埋没脱線し機関車乗務員が死亡したが、大部分の乗客乗務員は無事だった事は該事故に於いて不幸中の幸いだったと言うべきであり、若し、第116列車が定時運転であれば死者が倍増以上の結果を招来したであろうと推定される。
更に、震災発生と同時に白糸川上流で発生した大規模山崩と此れに伴う土石流に拠り、鉄砲水と泥流が村落を襲撃し村民200名以上が押流され、白糸川橋梁は完成後1年未満だったにも拘らず、第1号、及び、第2号橋脚が震動で倒壊した以外、第3号〜第6号橋脚、及び、熱海方橋台は大土石流の為に橋脚途中から切断流出し現在に至るも橋桁と共に埋没所在不明となる。
震災と同時に海上では津波が発生した為に、生存者は押流され被害を更に悪化させる結果となった。
根府川駅付近は徹底的に破壊され復旧困難と見積られ一時は放棄別線化も検討されたが、調査の結果、根府川駅下岩盤は集塊岩で構成され復旧可能と判定され、同年12月28日に復旧工事が開始され、翌大正13年(1924年)7月11日に完成し國府津-根府川間の運転が再開される。
関東大震災で熱海線根府川-真鶴間で根府川駅、及び、白糸川橋梁以外の被害は、建設中の千歳川橋梁の橋台橋脚の破損、賽ノ目隧道、八本松隧道、及び、長坂山隧道崩壊等々が発生した。
関東大震災が発生しなければ大正13年度には真鶴-熱海間が開通し、横須賀線と同時に横浜-熱海間も電化され我が国初の2扉クロスシート長距離仕様デハ43200型電車の運転が実施される予定だったが震災が全ての計画を画餅化した。
横須賀線は昭和5年(1930年)3月15日から従来の機関車牽引客車列車に代り電車運転化される。
然し、東海道本線東京-熱海間の定期電車運転は昭和13年(1938年)に計画想定され平塚に電車収容用地も取得されたが日華事変拡大に拠り中止となり大東亜戦争後の昭和25年(1950年)3月1日に持越される。
因みに平塚に電車区用に取得された土地は本来の目的に使用されず後に相模貨物駅になる。
また、京濱線東京-桜木町間で使用されていたデハ43200型3等電動車は震災後の混雑激化で2扉では乗降に手間取り2等専用車サロ18型を除き3扉ロングシートに改造され昭和3年(1928年)の大改番以降はモハ10型に集約される。
表紙写真は上流側から見た東海道本線湯河原-熱海間千歳川橋梁。
根府川駅
駅本屋
全景
初代駅舎は関東大震災の際の大山津波と土石流被害で流失損壊し現駅本屋は2代目。
大正11年(1922年)12月21日開業
大正12年(1923年)9月1日関東大震災被害で全滅
大正12年(1923年)12月28日早川-根府川間復旧工事開始
大正13年(1924年)7月1日復旧
昭和3年(1928年)2月5日 電化及び複線化
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1198
根府川駅
駅本屋
内部
東海道本線東京-熱海間で唯一無人駅。
封鎖された有人時代の出改札口跡が残る。
根府川駅
建物財産標
駅本屋は大正13年(1924年)10月10日竣工。
熱海線復旧より駅本屋竣工が遅い事を証明。
根府川駅
関東大震災殉難慰霊碑(かんとうだいしんさい じゅんなん いれいひ)
震災発生時の出務者で死亡職員慰霊の為に昭和8年(1933年)建立。
根府川駅
旭道ハ山崩ノ為全部海中ニ押出サレ形跡ヲ留メ非ル程ノ惨状ヲ呈シタリ(震災復興局震害被害報告書)
根府川駅
駅付近基面以下の地層は堅固な集塊岩な為に堆積岩石土砂を除去する事で駅構内の復旧を可能にした。
根府川駅
神戸方
白糸川橋梁通過中の東京発静岡行普通列車321M列車
因みに、該車輌保有のJR東海は優等列車以外の会社間列車相互乗入廃止の方向で検討を始めた。
根府川
小半島部
関東大震災以前は入江で漁船の舟溜りだった由。
関東大震災の際の山津波と土石流が山奥から大量に流失した岩石が堆積し現在の如き痕跡を残す。
根府川駅付近
干潮時波間に浮かぶ岩石は初代根府川駅ホームの痕跡。
何故に海中にホームの痕跡が存在するかと言えば、大正12年(1923年)9月1日11時58分に発生した関東大震災の際に根府川界隈で山津波が発生し駅も村も全滅に瀕し、丁度根府川駅に上り下り列車が入線直前で、上り列車は若干遅延し賽の目随道内で被災した為に機関車の被害で済んだものの、下り列車は定刻に到着した為に駅もろとも山津波に呑み込まれ崖上から海中に転落し、更に直後に発生した津波の為に乗客村民共に海中に引きずり込まれ数名が助かった以外、乗客乗務員100名以上、村民250名以上の者が行方不明となる大惨事となる。
該ホーム痕跡は関東大震災とそれに伴う山津波と津波とに依り惨事が生じた史実を現在に証明するもの。
根府川-真鶴間
白糸川橋梁
初代橋梁は架橋後1年未満で関東大震災に遭遇。
震災の際の山津波で橋脚ごと破壊された。
現在の下路トラス橋梁は再建された2代目。
岩泉寺(がんせんじ)より
小田原市根府川187
東海道本線根府川駅 徒歩4分
根府川-真鶴間
熱海線
白糸川橋梁
大正11年(1922年)開通当時の初代白糸川鉄橋を撮影した貴重な写真
熱海線時代は単線。
牽引蒸気機関車は8620型と推定
蒸気機関車後の荷物車は明治期製造のポギー車改造車
旅客用はナハ22000型木造大型客車
絵葉書
横浜臨海公園 蔵
根府川-真鶴間
旧 長坂山随道(ながさかやま ずいどう)
長坂山隧道は相模湾が垣間見える事から別名『メガネ隧道』として利用者に知られた存在だったが昭和40年代に入り地圧の関係で隧道内部の変状が顕著となり運転上危険となると判定され新たに真鶴隧道(1710メートル)を開削し昭和47年(1972年)6月に開通させ長坂山隧道は使用中止後放棄。
真鶴駅
駅本屋
早川駅同様開業当初の佇まいを残す。
真鶴駅
大正11年(1922年)12月21日開業
大正13年(1924年)5月1日根府川-真鶴間復旧工事開始
大正13年(1924年)10月1日白糸川部分を徒歩連絡の仮復旧
大正14年(1925年)3月1日本復旧
昭和3年(1928年)2月5日電化及び複線化
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1448
湯河原駅
旅客ホーム上屋
大正13年(1924年)10月1日開業
昭和3年(1928年)2月5日 電化及び小田原-湯河原間複線化
昭和9年(1934年)11月6日 湯河原-熱海間複線化
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1618
湯河原駅
旅客ホーム上屋
大正期に湯河原駅開業時と同時に建築されたホーム上屋木造支柱が見るも無残に切断。
新上屋構築の為との理由に基づくもの。
歴史的産業遺産に対する理解力のイロハの心得すら無いJR東日本の無知無能ぶりに唖然。
湯河原-熱海間
該鋼鉄製架線柱は横浜-国府津間や横須賀線電化の際に用いられた長距離電化創生期のもの。
関東大震災が発生しなければ大正13年春には東京-真鶴間で電気運転が開始された筈。
震災被害復興の為に当時の鉄道省の予算が無くなり架線釣張の為にアメリカより松材を輸入するも材質的に芳しい存在では無かった様で改めて鉄柱を使用することに決定した。
湯河原-熱海間
熱海線國府津-熱海間電化工事に鑑み架線柱に木柱を用いず鋼鉄柱を使用した原因として関東大震災直後に発生した火災に拠る焼失被害が問題に在ったと推定される。
即ち、震災発生直後に各地各所に於いて出火した火災被害に拠り鉄道関係施設で電化工事の為に用意されたアメリカから輸入した松材が火災の被害の前に成すすべくも無く簡単に焼失した事から、当時の鐵道省工事局をして経費節減の見地より輸入木材を架線柱として採用する事に内定していたが、鉄道省をして『木材=火事に弱い』と言ふ事実を突きつけられた事に依る。
電化当時に架線柱に鋼鉄製を採用した事は時代が下って大東亜戦争末期に日本本土各地が空襲被害に曝された際に沿線火災で焼損するも焼失しない鋼鉄柱の現実に直面する。
故に、震災直後に鐵道省工事局が架線柱に木製を排除し鋼鉄製を選択した事は結果的に正当且つ英断であって正鵠を得たと言ふべきだと言える。
湯河原-熱海間
反対側より千歳川橋梁を見る
関東大震災発生時に湯河原-熱海間は未開通ながら泉越隧道工事運搬トロッコ用レールが敷設されており震災発生と同時に橋梁は千歳川に崩落し橋脚も打継部から切断被害を蒙る。
湯河原駅-熱海間
泉越隧道
上り線東京方坑門
熱海線時代に掘削建設された随道中、唯一の単線並列形式
此れは 温泉余土 の為に当時の技術では複線型の掘削は困難とされ単線形式で掘削。
温泉余土(おんせん よど)とは岩石が長年に亙る高温の温泉水で粘土質に化学変化したもので、空気に触れる事で爆発的膨張し掘削した口径部を閉塞させる特徴を有し、コンクリートや鉄筋をも腐食させる作用を有す。
丹那隧道や伊東線宇佐美隧道工事でも温泉余土に依る変状被害に工事関係者は困惑させられた。
泉越隧道は大正14年(1925年)3月25日に湯河原-熱海間開業直後から温泉余土の為に側壁に変状を来たし、その後も膨張を続け、先ず、上り線隧道内から複数の亀裂が発見された事から、昭和2年(1927年)12月に亀裂部分にモルタルを注入して対応したが抜本的解決策とはなり得ず、列車運転上、隧道本体崩壊の懸念がすら生じた為に、已む無く、未使用だった下り線隧道を活用して湯河原-熱海間を単線運転を講じながら昭和8年(1933年)3月から上り線隧道改修工事を施工し完成後、直ちに下り線隧道改修工事を実施し同年10月に竣工したが常に側壁変状に対し補修を要する存在である。
尚、泉越隧道は作業員450名が掘削工事に携わったが、内200名以上が朝鮮人労働者だった事は知られていない。
湯河原-熱海間
逢初山隧道(あいぞめやま ずいどう)
熱海方坑門
関東大震災では隧道工事作業員26名が坑道内土砂崩壊で被災するも1名を除き無事生還した。
平塚、国府津、小田原同様、本来は中2線が本線で、外2線は退避線用だったものを電車折返しの便を考慮して相反させる。
中2線が隧道に対し直進なのが旧本線痕跡。
熱海駅
鋼鉄製架線支柱
昭和3年電化当時の鋼鉄製支柱が残存。
熱海駅
大正14年(1925年)3月25日 開業
昭和3年(1928年)3月5日 電化
昭和9年(1934年)11月6日 湯河原-熱海間複線化
昭和9年(1934年)12月1日 丹那隧道開通に依り熱海-沼津間開通
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=64
熱海駅
ホーム鉄骨支柱部分は本来は切込みタイプのホームで伊東線電車の発着に使用されたが昭和43年(1968年)9月9日に熱海-来宮間が東海道本線と伊東線が分離され現第1番線ホームを新設し切込みタイプ部分は使用中止し該部分が延長された。
熱海駅
第2番ホーム上屋支柱古軌条
UINON D. 1885 I.R.J.
(独ウニオン社ドルトムント工場1885年製造 逓信省鐵道作業局
発注品)
支柱番号第14号a
熱海駅
第3番ホーム上屋支柱古軌条
UNION D. 1886 N.T.K.
(独ウニオン社ドルトムント工場1886年製造 日本鐵道會社発注品)
支柱番号第8号c
熱海駅ホーム上屋支柱使用中の同品は、
第2番ホーム、
第10号d、第14号d、
第3番ホーム、
第16番b、第18番d、
熱海駅
中央線路に向い左手が 野中山隧道 で昭和9年(1934年)12月1日に東海道本線丹那隧道開通時開通時の東海道本線。
昭和43年(1968年)5月に従来の東海道本線と伊東分離をはかる為に従来の物を伊東線用とし野中山隧道を譲り右手に 新野中山隧道 を掘削完成させ東海道本線用として使用に至る。
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始めまして。
拙い私の旅行記に投票をありがとうございました。
真鶴駅は、家族や子供のお友達と磯遊びにと良く訪れる駅です。
「さあ早く」とうきうきする子供達と通り過ぎていましたが、愛着のある駅に知識が得られさらに愛着がわきました。
私も横浜市民で、横浜臨海公園さんの旅行記に出てくる場所を毎日歩いています。とても身近な場所の深い話を知ることができ、ぜひ子供達にも教えたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願いします。
kazu

kazuさま、おはようございます。
メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
また、拙稿をご覧下さいまして恐縮しております。
小生、旅行記を作成するにあたり、先ず第一次資料の検討から始める為に完成まで遅速の誹りを免れませんが、それなりにご納得いただければ幸甚でございます。
今後とも何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園

今晩は(スペインは今、10:45PMですので)横浜臨海公園様。
先にご訪問有難うございました。先に旅行記を拝見させていただいてからと思い、途中まで読ませていただき、これは腰すえてでないと、と思い、一旦、閉じ、夜ごはんの支度をして、もどってきましたところ、貴殿より、先に“訪問お礼”並びに”旅館口コミご投票“有難うございます。誠に恐れ入りました。
さて、最初”懐かしい大学の歴史の時間が蘇ったか(日本史学科だったので)、これだけ漢字が並ぶと、中国の方か?と(大変失礼おば)
じっくり読ませていただきました。 父が存命ならば、一緒に読ませていただきたい内容でした。鉄道ではありませんが、トンネル、道路の建設に携わっていましたので。関東大震災は歴史の時間を通してしか知りませんでしたが、神戸の震災の傷跡をみてきただけに、人ごととは言えません。
実家は姫路なのですが、で私はその時はスペインのサラマンカに語学留学をし、主人はロンドンにいて、地震の事を知り、日本語が話せる私の友人に頼んで、日本の私の実家の無事安否を調べ、サラマンカに連絡をくれました。
サラマンカではあまり情報がそんなに入って来なかったのと、私の語学力の無さで、何のことかわからず。 当時ロンドンでは日本の新聞はどこを捜してもなく。まさかの地震でした。 歴史では”関東大震災”とだけでピンと
来なかった人も、震災体験から、関東大震災は過去にあった、と言うのではなく、むしろ、隣に来ていたというものに変わったように思います。 姫路は幸いにして、そんなに災害は少なかったですが、その年の4月に帰国した折、家の横の道の亀裂が、震災のあとだと教えられ、ぞっとしました。自然の力と言うものはなんと大きく、怖いものか。人間には太刀打ちできませんね。なんか、話が地震ばかりの話に。。。
横浜臨海公園さんは、イギリスにもいらっしゃったようですね。私も学生(と言っても30過ぎての学生でしたが)プラス、仕事でロンドンに16年おり、今はバルセロナ、5年目に入ります。貴殿は学者さんですが、私も”学”ぶ”者”で、(偉そうに、全然違いますが)色々なことをここで勉強させていただき、日本に帰国したいと思っております。 これからも宜しくお願い致します。
因みにkuropisoさんに続き(1日違いです)私も1つ、歳をいただきます。
(1つで結構です。2つは遠慮しておきます)
大将

> 今晩は(スペインは今、10:45PMですので)横浜臨海公園様。
> 先にご訪問有難うございました。先に旅行記を拝見させていただいてからと思い、途中まで読ませていただき、これは腰すえてでないと、と思い、一旦、閉じ、夜ごはんの支度をして、もどってきましたところ、貴殿より、先に“訪問お礼”並びに”旅館口コミご投票“有難うございます。誠に恐れ入りました。
> さて、最初”懐かしい大学の歴史の時間が蘇ったか(日本史学科だったので)、これだけ漢字が並ぶと、中国の方か?と(大変失礼おば)
大将さま、こんばんは。
懇切なメッセージを賜り恐縮しております。
誠に有難うございました。
> 実家は姫路なのですが、で私はその時はスペインのサラマンカに語学留学をし、主人はロンドンにいて、地震の事を知り、日本語が話せる私の友人に頼んで、日本の私の実家の無事安否を調べ、サラマンカに連絡をくれました。
→阪神大震災発生の翌月に岡山から姫路、そして、灘まで開通しているJRに乗車し灘駅から乗車の為に長蛇の列をなしたバスを諦め摂津本山駅まで歩きましたが、それはそれは神戸の街が不当四角形に歪んだ光景は今でも忘れられません。
> サラマンカではあまり情報がそんなに入って来なかった
→寧ろ、首都マドリッドの日本大使館に連絡を取った方が賢明だったかも知れませんね。
> 横浜臨海公園さんは、イギリスにもいらっしゃったようですね。
→最初の在英経験は、父の転勤で昭和40年(1965年)でしたが、当時のロンドンは日本人の姿も今と違い際立って少なく、自宅近くに大規模な火事現場があり、てっきり子供心に火事現場だと思いきや、実は第二次世界大戦中のドイツに依るロンドン大空襲の被災現場だた後で教わりましたが、当時はロンドン市内やコヴェントリー市内には戦争の焼け跡がそこかしこに残っておりました。
小生こそ歴史学専攻ではございませんが、今後とも何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園

横浜臨海公園さん、こんばんは。
早速拝見させていただきました。
とても同じところに行ったとは思えない内容に自分の旅行記の
薄っぺらさを感じずにはいられませんが、三者三様って事で
面白いものですね。
横浜臨海公園さんは学者さん?
いや、きっとこうゆうこと聞いちゃいけないんだろうけど
ほ〜んと、何でもよくご存じなんですね。すごいなぁ(@_@)
根府川駅の構内にあった震災の慰霊碑、何でこんなところにある
んだろうと気になってたんですよ。
そしていつものことながら疑問をそのままに終わる。というところでしたが
横浜臨海公園さんのおかげでスッキリしました。
まさかこののどかな駅でそんな大惨事があったなんて驚きです。
駅ごと海に押し流された犠牲者の方々の冥福を今更ながら祈りたいと
思います。小さな駅にも深い歴史があるものですね〜。

momotaさま、こんにちは。
早速メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
> 横浜臨海公園さんは学者さん?
> いや、きっとこうゆうこと聞いちゃいけないんだろうけど
> ほ〜んと、何でもよくご存じなんですね。すごいなぁ(@_@)
実は何も存じませんが○○学者でございます。
> まさかこののどかな駅でそんな大惨事があったなんて驚きです。
> 駅ごと海に押し流された犠牲者の方々の冥福を今更ながら祈りたいと
> 思います。小さな駅にも深い歴史があるものですね〜。
関東大震災の際に鉄道関係での死傷者が多かったのは根府川駅と横須賀駅です。
横須賀駅では静岡高等女学校生徒が横須賀軍港見学の修学旅行の途中で列車から降りて点呼中に震災が発生し、裏山が大崩壊して他の一般人を含め300名余が生き埋めとなり半月間も放置され臭気甚だしく蝿が纏集する状態だったそうです。
此の被害に対する慰霊碑が存在しておらず悲劇が伝わっていない様です。
横浜臨海公園

わぁ〜本当に学者さんだったんですね!!
すご〜い☆そんな方とお話出来るなんて恐れ多いですよぉ。
○○が気になるところですが〜…
お・し・え・て(^_-)
ってちょっと秘密めいていた方が楽しいですね♪
震災では本当に多くの方が亡くなられたので横須賀の被害もその中に
埋もれてしまったのですね。。。
何気に訪れた駅から色々なお話が聞けてとても勉強になりました。
早速、母に話して聞かせたんですよ〜(^_^)

momotaさま、こんばんは。
関東大震災発生の際に当時の鉄道省所管の路線で神奈川県内での被災ヶ所は多数存在しており中には現在でも目にする事が可能な所もございます。
我々が目にする所では相模川橋梁で下り線の進行方向右側川面に散在するレンガや古レールの瓦礫の山は震災で橋梁が破壊落橋した痕跡です。
今度、東海道線に乗られた際に注意深くご覧になってみて下さい。
横浜臨海公園

横浜臨海公園さん、こんばんは!
何気ない駅の風景の中にも、忘れ去られようとしている歴史があったんですね。
駅の見方が変わってきます。
熱海駅ホームの柱はレールだったんですね。
それにしてもかなりの年代物!
ヴィンテージの柱と?いうかレール?
またお邪魔します☆(^∀^)ノ~~

airpentaroさま、おはようございます。
以前の駅ホーム上屋柱は古レールを使用した所が大多数でしたが、民営以降、レール自体の老朽化が深刻な問題と化し全体を交換し改築される例が激増してしまっているのが現状です。
然し、まだまだ各地に残っているのも事実なので注意してご覧になってみてください。
横浜臨海公園

現在でも使用されているとは思いも付かない
鉄道文化遺産ですね。
今度いったら探してみます。
真鶴駅は何度も行きます。
いい思いでもあって、、狩野川台風の頃。
義臣

義臣さま、こんばんは。
早速、訪問と投票を賜りまして誠に有難うございました。
> 鉄道文化遺産ですね。
> 今度いったら探してみます。
小生には国府津-熱海間は宝の山に見えてなりません。
横浜臨海公園
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