江戸東京紀行(浅草「東照宮」の名残を求めて歩く浅草神社、とことん東照宮の巻):一歩人さんの旅行ブログ
浅草神社の祭神は、三社様(僧の土師氏像と浅草寺本尊の観音像を網で
拾い上げた檜前兄弟)と東照宮とあります。東照宮とは、権現様すなわち
家康公です。
慶安二年(1649年)に合祀されました。以来、三社大権現といい、
明治元年(1686年)三社明神、同六年浅草神社と改称したと。
現在の社殿は、慶安二年12月、家光公が再建した。と。
建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」を設け、屋根の棟数の
多いいことを特徴とする権現造り。と。つまり、東照宮にして、東照宮と
呼ばれておりません。なぜ?なぜ?なあ〜ぜ????????
(参考:図説浅草寺ー今むかしー、編集・発行 金龍山浅草寺、東京美術刊、
1996年11月21日初版他)
(二天門の画像を追加2008年12月10日)
01 石橋
元和四年(1618年)浅草寺に東照宮
(現存せず)が造営された際、参詣のために
神橋として、造られた。と。
寄進者は、家康公の娘振姫(ふりひめ)の婿、
紀伊国和歌山藩主浅野長晟(あさのながあきら)
、広島浅野家藩祖。と。
昭和23年文部省より、重要美術品に認定。
02 二天門(修理工事中)
すみません。来年9月まで修理工事中でした。
本来は、東照宮の「随心門(ずいしんもん)」。
元和四年(1618年)東照宮を浅草寺に
勧請(かんじょう)した際、新たに構えられた。
と。
浅草「東照宮」は、寛永19年(1642年)に
消失。つまり、石橋とこの門だけが残った。
03 設計監理
ちょっとだけ覗きました。土台しかありません。
設計監理は、(財)文化財建造物保存技術協会。
発注は、もちろん、浅草寺。
昭和20年(1945年)頃、関東大空襲で
焼け残った二天門だそうです。
江戸博の今昔展で展示されておりました。
(追加2008年12月10日)
屋根瓦に葵の御紋が散りばめられております。
寛永19年の消失後、幕府は、東照宮の再建を
見合わせ、その後、家光公は、藤堂家の造営した
上野の東照宮を慶安4年(1651年)に、現存の
社殿に造替、もってこれにかえようとした。と。
推察として、浅草寺が庶民の参詣寺だったこと、
逆に寛永寺が幕府の官寺だったからではないかと。
(参考:江戸学事典、弘文社刊、昭和59年
3月10日発行)
三社祭りとちがう切り口をお楽しみ
いただけましたでしょうか。
ふ、ふ、次回は、紅葉山東照宮なんて。
おしまい。
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