1978/12 - 1978/12
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アリヤンさん
1978年12月ころだった。
クウェート航空でイラン・テヘラン・パーレビ国際空港に降り立った。
クウェートに、初めて駐在し始めたころでした。
クウェートでの滞在許可期間が切れそうなので、一度国外にでる必要があった。
周辺国でビザ不用の国は、当時ではイランだった
(当時互恵条約で、両国人ともにビザなしで1ヶ月滞在できた)
テヘラン駐在員のOさんが、正月休みを兼ねて逆にクウェートに来ていて、ワタクシが入れ替わりに、テヘランに行き、テヘラン駐在員Oさんのアパート(アミール・カビール通りとエクボタン通りが交差するあたりにそのアパートはあった)に1~2泊して、クウェートに帰る手はずであった。
出発前にテヘラン駐在員に危険性をきいたところ、
「大丈夫、ダイジョーブ、大したことアラヘン!イランの新聞は大げさや!アリちゃん、ダイジョーブやで!」とのことだった。
*当時は外務省の危険情報もなく、日本企業の海外危機管理はゼロに近かった。
当時、日本の中東駐在企業戦士たちは今では信じられないほど危機意識が薄弱であったと思われます。
そのころクウェートの英字新聞でもテヘランでのデモ、ストライキは報道されていて、警察・軍隊が発砲してかなりな人が死亡している記事も見られた。
まあ「1泊くらいやから大丈夫やろう、、、、」と思い、イスラム革命前夜のテヘランを訪問したのだった。
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当時、カメラなんぞは持ち歩かなかったので、稀有な体験で目撃したことは、ワタクシの脳裏にしかありません。
この写真は後日、仕事でテヘラン再訪した時のもので、宿泊したホマ・ホテル(1978年当時はヒルトンだったかな?シェラトンだったかなあ?一階に「弁慶」レストランがあった。現在は近くにセリナという日本レストランがある)の窓から見た、テヘランの冬の風景です。
1978年12月、テヘラン・パーレビ国際空港からタクシーに乗って、アミール・カビール通りに向うよう運チャンに云うと、
「昨日、沢山の人が街で殺された。だからデモが頻発している地区は避けて行くよ」と言っていた。
避けていったのが功を奏したのか、お陰で当時の地元英字新聞ケイハンに載っていたような、ブラッド・シェッド(流血騒ぎ)の現場は全く見ずに済んだ。 -
無事、アミール・カビールとエクボタン通りの交差点近くにある、テヘラン駐在員のアパートに着いた。
この界隈はバザールが近く、テヘランでも繁華街にあたる地域でした。
すぐ近くに自動車部品マーケット(カシュニ・マーケット)があり、終日多くの人たちで賑わっていました。
そうそう、このアミール・カビール近くのセパ広場(現イマーム・ホメイニ広場)には、バックパッカー御用達のアミール・カビール・ホテルというのがあった。
1974年当時、ヨーロッパーインド間のヒッピーロードを、インドに向かう途中、テヘランで数日間このアミール・カビール・ホテルに泊まったことがある。
だから、ワタクシはこの界隈にはヒトシオの思い出があったのです。 -
事件はその時、起こりました。
テヘランで一泊だけして、クウェートに戻るときでした。
パーレビ国際空港でクウェート航空便に搭乗する手前の待合室でした。
すぐ近くに見えていたクウェート・エアー便出発のアナウンスが一向に無いのです。
待てどくらせど、何のアナウンスも無く、数時間が過ぎました。
やっとアナウンスがあった、、
「ただ今、空港職員は、ゼネラル・ストライキ決行中です。全グランド・スタッフは、パーレビ国王に反対して、ストライキに入っております」
っと言うことは、飛行機はもう飛ばないのか?
同室だった乗客どうし、
「どうなっとるの?われわれはどうなるの?」
と言い合って、にわかに浮き足立った。
もうパスポート・コントロールは終ったので実質イランは出国した状態だった。
ワタクシ「クウェート・エアーの飛行機はあそこに停まっている。パイロットはグランド・スタッフじゃあないのだから、乗務員はストをしていないハズだ。ひょっとしたら飛ぶカモ?」
みんな、同調して飛行機のところまで、自分達の荷物を引きずって(荷物は待合室のソバの滑走路に放置されていた)機首の下まで行った。
乗客、皆で叫びました
「オーイ、パイロットさ~ん!あなた方はストやってますかあ?
エッ?、やってない!。そしたら飛びますかあ!?」
パイロットは、飛ぶ、というではアリマセンカ!
みな喜んで乗り込みました。
それが、イランから飛び立った、最後のフライトだった。
(そう思います。だってその後ずっとテヘランからのフライトは全てキャンセルされ、テヘラン行きのフライトも全てキャンセルされていましたから) -
その後しばらくして、イスラム革命が勃発。
多くの犠牲者を出して、パーレビ国王が国外に退去しました。
あれ以来、ジーンズで闊歩していた、ペルシャ美人の姿は消え、黒いアッバイヤが、ズズっと動く、暗い、くら~いテヘランになってしまいました。
その後イラクのサッダーム・フセインに戦争を仕掛けられて8年間もイラン・イラク戦争に突入。
在イラン邦人の多くがトルコ航空で一旦クウェートに脱出してきた時もワタクシの家族はクウェートに住んでいました。
テヘランを脱出した日本人の多くがクウェートのヒルトンホテルのロビーで寝泊まりしていたのを目撃しています。
最近では、若い女性たちは、ホッカムリ程度で歩けますが、ホメイニさんがパリからテヘランに降り立ったころは、真っ黒なアッバイヤ(チャドル)だらけとなっていました。 -
1978年当時のテヘラン市内地図です。
メインストリートの名前には、シャー・レザ通り(パーレビ国王の名前の付いた通り)があります。
現在のイマーム・ホメイニ広場はパーレビ広場でした。
アミール・カビール、エクボタン通りの名前は今も変わりありません。
仕事で直近では、2004年ころにテヘランに行ったことが有りますが、街の暗さはどこか、かつての東ベルリンに似通っていました。
若者は密かに聞いてきました。
「アリヤンさんは、パーレビ時代のテヘランを知っていますよね。今のテヘランとどっちが良い?
正直に言ってください!」
ワタクシ「本当に正直に言えば、パーレビの時代のほうが良かったヨ」っと言うと、その若者は「やっぱし、ソウカ」と納得していました。
さて、この旅行記を書いている現在、イラン大統領選挙で保守派が勝ちました。
しかし改革派は納得せず、連日デモを繰り広げています。
死者もでた、との報道があります。
何かしら1978年当時のテヘランの様相に似ているようです。
多くのデモ隊が体制派の発砲で死んだりしたら、イラン第二革命に発展しかねないのでは?
と危惧するのはワタクシだけか?
*2012年に夫婦でイラン滞在1ヶ月の機会を得た。
仕事で何度も行ったイランであったが、プライベートでの旅で真のペルシャ人たちの底力を経験させてもらった。2000年~5000年前に高度な文明を築いたペルシャ人たちのすばらしさは現代のイラン人の心にいまだに息づいていることに気づきました。彼らのもつ精神世界は現代世界でも最高度のものだと思うようになりました。
ご興味ある方は2012年のイラン訪問記をご参照ください。
http://4travel.jp/travelogue/10742869
地図拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9911/1979TehranMap.jpg
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