ノスタルジック中近東ーメソポタミアとインダス文明の交差点、クウェートのファイラカ島:アリヤンさんの旅行ブログ
産油国、イラク侵攻、湾岸戦争、自衛隊の集結地・休息地、などの代名詞がつくクウェート首長国。
1979年から3年半のあいだ、日本の企業戦士として、駐在をしていた。
ニクソンショックで円高が急激に進む中、ある商社の営業マンとして、アラブ商人やインド商人を相手にMade in Japan製品を販売していました。
クウェート赴任を契機に、アラブ諸国との付き合いは、以来20数年となってしまった。
当時の守備範囲は、クウェートを拠点にサウジアラビア、ドバイ、オーマンとイエメン。
特に、サウジアラビアとドバイへは、毎月クウェートから出張していた。
このころは、オイルマネーがうなっていて、どことも成金国家の様相で、水は油より高く(海水を日本製の淡水化プラントで水を作る)、金スーク(市場)では金がうなっていた。
よって日系企業の多くがここクウェートに駐在拠点を持っていた。
ちょうど今どき流行の「ドバイ」っと言った状況だった。
当時は、
「大手商社員 or 大手企業員ならば、3年くらい駐在すれば、家が建つ」
と、言われたほど、アラビアでの駐在員の待遇は良かった、らしい。
(2流商社員の当方には、あまり関係なかったけど)
ノスタルジック中近東では、仕事とは無関係なプライベートなスナップを中心に、ご紹介します。
湾岸道路からクウェート・タワーを臨む。
今現在もこのタワーはあるが、海岸はどうなっているだろうか?
第一次湾岸戦争(パパ・ブッシュがイラクをクウェートから追い出した戦争)直後に訪れた時、海岸線は全て封鎖され、「地雷、機雷で危険!」だった。
湾岸道路沿いに有った王宮も、ヒルトンホテルも、破壊されて無残な姿だった。
毎金曜日の朝、漁師が海岸に即席の魚市を開き、獲って来たばかりの魚介類を商う。
日本人に人気なのは、大きな車エビ。
ひとマス(20匹くらい)単位で、非常に安かった。食卓にはよくエビ料理が出たので、我が家の子供たちは、今でもあまりエビは食べません。
クウェート時代に、エビを満喫したと思われる。
クウェートの砂漠。
郊外に出ると、すぐに砂漠となります。
当時でも、砂漠にテントを張ったベドウィン(遊牧民)によく出くわした。
産油国のベドウィンは金持ちで、テントの外にはアメ車や日本車の4WDがよくあった。
ここらのラクダは、ヒトコブ・ラクダ。
1960年にイギリスから独立したクウェートは、当時インフラ(道路、建物などの社会基盤)建設で忙しく、ビーチなどは、このようにアジもソッケもないものでした。
砂漠(土漠)が海まで達して、突然、海、となる。
海の底も砂漠の延長なので、あまり魚もいないように思える。
欧米と日本人の子供たちには、イギリス人経営の幼稚園が近くにあった。
(日本人学校付属の幼稚園は、5才以上で入園可能だったが、わが息子はまだ2才くらいだった)
当時、息子は結構、英語をしゃべったり、歌をうたったりしていた。
(今はさっぱりだが、)
当時の在クウェート日本人は、約2000人で、クウェート日本人小学校があった。
近所の家族と運動会に参加。
拡大するとわかると思うが、遠くには砂のトルネードがみえる。
なんとも殺伐とした運動会。
でも子供たちにとっては、楽しいものだったろう。
クウェートシティから20キロくらい南に、石油積み出し港のアハマディがある。
「アハマディ」はひとの名前で、アハマディさんは石油王で、近くに緑豊かな公園を作ってくれていた。
サバクしかないところで、このような緑を維持するには、莫大なカネがかかっている。
当時のクウェートの人口は約80万人。
うち、クウェーティ(国民)は約30〜40万人。
他は外国人労働者。
インド、パキスタン、レバノン、シリヤ(略称イン・パキ・レバ・シリ)、イラン、イラク、エジプト、パレスチナ人でほとんどを占める。
なお、建国には優秀なパレスチナ人によるところが大きかった。
印僑には、ターバンをまいたシーク教徒が多く、ほとんどの企業のマネージャークラスを占めており、経済の推進力だった。
国民のクウェーティには最低生活保障として、毎月20万円くらいの国からの給付があり、政府役人や、企業のスポンサーで、外人に働いてもらって、そのアガリを頂く、という結構な生活をしていた。
休みの金曜日は毎週、「どう過ごすか?」かが問題。
小さな国なので、一ヶ月もすれば、行くところが無くなる。
湾岸道路を北へ、南へ走るだけで一日が過ぎてしまったことが多い。
当時は、まだ遊園地や大きなショッピングセンターは無かった。
あまり誰も行かなかった、ペルシャ湾に浮かぶ、小さな島、ファイラカ島に行ってみた。
アッバイヤ(黒子)をかぶった、クウェートの女性たち。
そばで子守りをしているのは、インド人のメイド。
クウェーティ家庭では、インド人やフィリピンの住み込みメイドやらハウスキーパーを雇っている。
よって、女性の家事仕事は、あまり無い。
ここに来て初めて知った。
紀元前のローマ時代の遺跡があった。
古代よりアラビア人が、ペルシャ湾を航海して、ペルシアやインドへ進出していた。
ローマ帝国は、ファイラカ島を戦略拠点と見て、かような遺跡を残した。
遺跡のそばに小さな考古博物館があり、そこで多くのローマ時代の印章や金貨を見た。
更に、最近わかったこと。
紀元前2000年ころには、メソポタミア文明とインダス文明の交易の拠点であった。
バハレーン島も同様な拠点であった。
インド・グハラート州にあるロータル遺跡で、4000年前に作られたボタン型印章が、ここファイラカ島でも発掘されている。
博物館でみた土の印章がそれであった。
もうひとつ、インダス文明はオーマンとU.A.Eの東部をもその範疇にいれていた、とのこと。
かような事柄の知識が当時あれば、ペルシャ湾での駐在も、もっとオモシロイものだっただろうに!
アー、モッタイナイ!
もう一度、この地域への旅をする意欲がわいて来た。
海上に浮かぶ島のため、湿気が多く、その水分で植物が結構生えている。
クウェートの夏は世界一暑い!
毎日50度近くになる。
5分と外を歩いてはいられない。
クーラーの効いた家と、車と、仕事場をわたり歩く。
内気と外気の温度差が大きく、それで体力が奪われる。
この時は冬であったので、比較的過ごしやすかった。
ファイラカ島では一泊した。
行ってはじめて、知ったのだが、宿泊施設が全く無かった。
帰りのフェリーにも間に合わず、困っていたら現地の親切なクウェーティが、自宅の一角を提供してくれた。
親子3人、貴重な体験をさせてもらった。
金持ちでない、本当のクウェーティの招待だった。
企業の雇われ社長、マネージャーはこうしたインド人が多かった。
インド人でも、パンジャブ地方出身のシーク教徒で、海外で活躍する印僑の中でも、エゲツナイほどの商売根性を持ち合わせている。
ターバンのインド人と対等に渡り合えれば、国際的に通用する一人前の商売人、と言えるだろう。
彼らはどこの国でも、独自のコミュニティを持っており、相互扶助ネットワークが出来ている。
恐るべし、インド人!
超お金持ちのクウェーティの居間にて。
普通女性は同席できないが、当時クウェートは多少なりとも西欧化していた。
アッバイヤをかぶらなくても、外人女性も過ごせた。
アラブの金持ちの家は、だいたいどこでも同じで、何十人も座れるダイニングルーム、壁の周りに何十人も座れるリビングルーム。
家具はイタリヤ製、床はイタリアヤ大理石に、ペルシャ絨毯。
お土産はロレックスの時計か、金製品。
車はロールスロイス、、、、
「他にカネの使い道はないのかなあ?」
いずれにせよ、昨日までラクダを引っ張って、遊牧しか生きる手段が無かった人たちである。
急におカネが、地面から湧き出てきたのです。
成金になるのは必定。
どこか、カワイソウでもある。

アリヤンさま、こんばんは。はじめまして。
クウェート滞在中の写真を拝見しました。
コメントもとても興味深かったです。
しかも、お陰さまで一つの疑問が解けました。
以前、ドバイへ旅したとき、アラブの海はとてもきれいなのに、魚がほとんどいなかったのです。なぜかよく分からなかったのですが、
アリヤンさんの「海の底も砂漠の延長・・」というコメントを拝見して、なるほど!と思いました。森があって海があるところは魚も豊富ですが、確かにドバイには森も林も見つかりませんでした。
また遊びに来ます!

sitejmさん
さすがの観察眼!砂漠の延長の海岸には魚が少ない、と気がつかれた。好奇心旺盛ですね。でもクウェートの海岸では海水浴の時、潮干狩りができたり、ウニやイカがとれたりしたこともありました。住めばミヤコでした。
{%airplane%}Boarding passes of Kuwait Airways クウェート航空の搭乗券です...(by A GLOBETROTTER -AGT世界旅ログ- on 2008年03月06日 20:15)