黒河・孫呉の戦跡を訪ねる。01:10月26日(月)No1:明石DSさんの旅行ブログ
7:01:04
華僑飯店の部屋にて
部屋は紅軍街に面している
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2009.平成21年10月26日(月)
■阿城(あじょう)へ行く
7時に朝食を食べに行った。服務員の態度は悪いし、建物も部屋もボロイが朝食は、まあまあなのがこの華僑飯店だ。
その後、準備をして阿城に向かう為に、フロントでバス乗り場を聞いた。案の定、「駅前にある」とあっさり言われる。20日に会った日本語ガイドである“李○○”が、「阿城なら別な場所からバスが出ていますから」と教えてくれていたので聞いたが、このフロントの服務員たちの態度は「一々説明するのも邪魔臭い」であった。
そして何故か?押金(ヤージン)を今返すと言う。私が「もう一泊する」と言うと、「知道:分かっている」と言いながら、押金の受け取り書を出せと言う。財布から出して渡すと金額も確認せずに20元を私に返した。一泊5元、10元の安宿ならいざ知らず、押金が20元のはずはない。それを一番分かっているはずの服務員だ。騙そうとしたとしか考えられない。
200元の押金を払ったのに何で20元?と、私は強い口調で「200元払った」と、すぐに怪訝な顔をして言い返した。その態度に、気がついたのか、騙せなかったと思ったのだろう。ツンと澄ました顔をして何も言わず200元を出して20元と交換した。
押金は保証金だからチェックアウトの時に返してくれるものだ。一日前に何故?それも「押金の受け取り書」を取り上げ、20元を返そうとした。ホンマ油断も隙もないここの服務員たちだ。便利には違いないが、三度目は絶対泊まりたくない。精神衛生上良くない。
阿城行きのバス乗り場は不明のまま、初日に“李○○”と待ち合わせた哈爾濱駅前の客運站(長距離バス乗り場)に行った。行けば分かるだろうし、そこからも阿城行きがあるかも知れない・・・と。そして行き先表示・時刻表などのパネルを見て阿城という文字を探したが見当たらず案内所らしき所で聞いたら「ロ那辺:NaBian」と指で方向を示し、やはり「ここではない」ということのようだった。
でも、それが何処なのかさっぱり分からない。兎に角、指で示された方向に行きながら「阿城行きのバス」と、何人かに聞いた。客運站から歩いて5分くらいの所の路上にそのバスは停まっていた。「阿城」と行き先表示の書いた大型バスが目に入った。バス停もそれらしき物も何もないのでバスが停まっていなければ分からない。
盛んに「阿城、阿城」と声をあげて客を呼び寄せていた。近づき料金を確認して10元を払い、デジカメで阿城の行き先表示のあるバスの正面を写そうとしたら、何故か「写すな!」と怒った顔で言われた。こんなことは初めてだったが・・・。気分を悪くしてバスに乗り込んだら、ほとんど満席に近く私が乗り込んだ後、二人ほど乗って来てバスは出発した。
9:42:16
輪タク(5元)に乗って阿城站に行く
正面が阿城站、もうすぐ到着
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■阿城
阿城には哈爾濱からバスで1時間足らずで到着した。高速道路から降りた時、5月に来た時に記憶にある古都を示すかのような赤い阿城の門が見えた。
終点は客運站だが、そこが街のどの辺りなのかさっぱり分からず、先ず阿城駅に行こうと、たむろしている自転車の輪タクに声を掛けた。ちょうど声を掛けた“オッちゃん”が、私の言葉を聞き取れず、仲間に「こいつ何を言ってるの?」と聞いていた。耳に補聴器を付けていた。行き先が分かったようで料金を聞くと「5元:70円」と言うことだった。
「乗り心地悪し」自転車の後ろにリヤカーのような物を付け、一応シートがあり透明ビニールで天井と周囲を囲っている。少しでもデコボコがあれば衝撃はモロに響く。5月に拉林でやはり駅まで乗った時の乗り心地(単車が動力)と同じであり、車の乗り心地の良さをつくづく感じる。
石光真清も1918年:大正7年3月15日、黒河から哈爾濱までの急ぎの馬車移動に際して・・・以下のように記している。
『内臓の動揺を防がねばならない。私は昔の武士が早籠に乗る時のことを思い出して、下腹に白木綿の生地を幾重にもキリキリと巻きつけた』
『だが三時間も経つと私の内臓は掻きまわされるように、反動に堪えられなくなった。横になったり、坐ってみたり、歯を食いしばって堪えていたが、とうとう枯草の中に顔を埋め、うつ伏せになって馬車にしがみつき眼を固く閉じた。このまま死んでしまうのではないかと感じた』
1918年のことなら今から91年前のことである。その頃の人は、今に比較すれば、いろんなことに途方もなく忍耐強い。ならば100年後の2109年の人は、私たちの時代の人を、そのように思う時代になっているのだろうか?そこにはどんな生活があり、どんな世界があるのだろう・・・。それよりも果たして人類は生存しているのか?
阿城站前で、石光真清物語を語りながら動画を撮る。阿什河に来たのは、一番は第二巻「曠野の花」で日清戦争時代に捕虜になり、6年後にこの阿城站前のロシア軍の野戦病院で、真清の来訪を受けた翌日、何も語らずになくなった一日本人兵士の話しに感銘を受けたのが、この地を訪ねた理由だ。
そして、第二に同じく「曠野の花」で、上記の兵士が亡くなった数日後、真清が哈爾濱に向かう為に駅に来た時、駅前で鉄道工事に携わる日本人の一団との遣り取りが記されている。当時の日本人の真骨頂が感じられる。この場所にそんな日本人のドラマがあった。
9:50:22
駅前広場:南西方向を写す
1900/明治33年8月:この附近にロシア軍の野戦病院あり
そこにいた日清戦争時の日本兵の捕虜らしき人物がいた
6年間黙秘を貫き、真清に面会直後に亡くなる
真清がこの地に葬り今も阿城のどこかに眠る
10:08:24
明治33年この地はロシアが占拠していた
そして37年、日露戦争
その後、満洲、そして中共、次は?
http://www.youtube.com/watch?v=DJnINciFNAA&feature=player_embedded
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http://www.youtube.com/watch?v=ewIOy7I6-d8&feature=player_embedded
10:18:58
鉄道の陸橋から阿城駅構内(西北西)を写す
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■阿什河(アシェハ)を見に行く
駅から徒歩10〜15分ぐらいで阿什河に架かる「継電橋」に着いた。橋の名前が「継電?」とあり、一体何なの?と、帰国後にWeb頁で検索したら『ウィキペディア(Wikipedia)』に下記のことが書いていた。
『電力工業は黒龍江省全体の経済の中で大きな比率を占め、特に阿城継電器公司はアジアで最大の送電設備を製造する企業の一つである。』
この阿城継電器公司の継電から来ているのかも?真相は不明だが。
途中年配の中国人男性に阿什河への道を聞き、行く方向が同じなので一緒にしばらく歩いたが、「水量が減った」と幾度もつぶやくように繰り返していた。グーグルアースの写真では川幅一杯水が流れているように見えるが、私が見た阿什河は、本来の川幅の10分の一くらいの小さい河になっていた。
今や大河の中の小川である。その危機感を訴えるように大きく標語が書いた看板が河の両側に設置されていた。
『保護水資源:改善水環境』『為了人類的生存:請珍惜(大切にする)毎一滴水』『水是生命之源:請イ尓節約用水』
読んで字の如く、この現実を見れば悲愴とも言える。地球規模なのかも知れないが、それに輪を掛けて中国の文化が環境破壊を加速させている。電飾輝きまくるビル群・トイレの便器の水の流れの悪さ・洗面所・トイレ・風呂場の水周りの不備・ありとあらゆることに無駄が多い。
水洗便器の形の重大さが中国の旅を通してつくづく感じる。我が家の便器は、少量の水で、あっけなく“物”が吸い込まれるように消えて行く。その十倍くらいの水量でも中国の便器は水だけ吸い込まれ“物”は残っている時がある。ホンマなんじゃこれって思うことしばしばだ。
阿什河は真清が来たころも、この場所を流れ、遠望できる周囲の景色はこうだったのだろう。
10:29:22
大河が小川に
水の流れは川幅の十分の一ほどです
http://www.youtube.com/watch?v=TY8BRp9BR8M&feature=player_embedded
10:47:54
阿什河の継電橋を真っ直ぐ南西方向に歩けば
阿城立交橋に繋がり、下り勾配の突き当りが
大きな三叉路、右手に鳥居があった
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■会寧公園へ行く
この公園にどのような謂れがあるのか知らないが、駅から阿什河の継電橋まで歩き、そこから歩いて会寧公園へと向った。ブラブラ歩きで25分くらい掛かった。途中、鳥居があり歴史遺跡とのプレートが貼ってあった。
Web頁で検索したら『阿城神社=昭和16年7月鎮座』と記されている。多分この阿城神社の鳥居なのだろう。
日本人住むところに神社あり。貴方の宗教は?と問われれば、私の宗教は「ご先祖教」であり「八百万の神」を心の拠り所にし、自宅には神棚と仏壇を置き、日々お祭りしています。そして男系継承による万世一系の天皇陛下を戴く皇室の存在を唯一無二の日本の宝として、この国体が未来永劫続く事を祈っています。
途中、馬家溝という阿什河の支流が街中を流れており、通城橋を渡ったが哀れなるかな、水の流れはほとんどなく中国全土の水不足の実状をこの地においても痛切に感じる。
会寧公園に到着し、立派な門をくぐり中に入ると最初に目についたのは、この阿城の高校から有名大学に合格した逸材の写真展示だった。日本では全国統一学力テストの結果さえ、地域・学校単位で公表することすら出来ない。日教組による競争忌避、並みのレベルに合わせる教育ほど愚かしいことはない。それが教師も生徒も地域も親も引いては国の劣化を助長する。
日教組・自治労・その他の労組の政治的な活動は、全て左翼思想に通じる。政治・思想活動を組合活動の中に取り込むな。己の成すべきことを真摯に追求しろ、国家国民にとって百害あって益はない。
会寧公園は1995年7月1日に竣工され開放されたようだが、中味については分からず。歴史的に由緒ある物では無さそうであり、真清の時代には無かった物だろう。
その他に行くあてもなく、客運站を目指して歩いた。歩きながら動画を撮った。「戦争とは・・・」を語りながら。Uチューブなる物を知り、私の旅もイロイロやりたい事が多くなり、面白いとはいえ大変だ。交通事故に気をつけないと。
11:18:28
こんな風に展示され
このように皆が見ています
合格者は家族の誇り、地元の誇りです
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http://www.youtube.com/watch?v=j-C-778ClkI&feature=player_embedded
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http://www.youtube.com/watch?v=8lTp0LgPVXQ&feature=player_embedded
11:49:52
右手が阿城の客運站
延川大街沿いで、民権大街と解放大街の間にあります
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■阿城:客運站
私の阿城での足取りは↓
客運站→(輪タク)→阿城站→(徒歩10〜15分)→阿什河・継電橋→(徒歩25分)→会寧公園→(徒歩25分)→客運站
歩くのはブラブラ・キョロキョロ、写真や動画を撮りながらである。
阿城は千年の古都とかいう紹介もあるが、客運站の附近には、少しその趣を感じさせる建物があった。だが作られたのは最近の物ばかりで、日本の古都の風情とは比較にもならない。バス乗り場附近の露店でファーストフードなる物を食い哈爾濱に戻るバスに乗った。さらば阿城である。
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