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諾門罕の戦場を訪ねて<br /><br />ホロンバイル草原<br />ノモンハンの国境警備基地<br /><br />外蒙古との国境付近<br /><br />//////////////////////////////////////////<br /><br />旅への想い <br /><br />ノモンハン事件 <br /><br />1939年、昭和14年5月11日、戦いは始まった <br /><br />去年、雲南の拉孟・龍陵・騰越の戦跡を訪ね <br /><br />迷いなく次はノモンハンに行こうと思っていた <br /><br />戦後世に出ているノモンハンに関する戦記本は <br /><br />関東軍上層部の驕りから来る稚拙な戦略の結果によって <br /><br />無意味な戦いをし、多くの兵士をむざむざ死に至らしめたという <br /><br />そんな批判・非難の内容ばかりである <br /><br />確かに一面では的を得ていたとしても・・・。 <br /><br />私は、そうは断じて思わない、思えない <br /><br />何故なら、彼らは「戦った」 <br /><br />辺境の地まで行き戦った <br /><br />その事実だけで、その他の全てを許せるのだ <br /><br />無能な高級参謀、自己保身に走る上級将校、兵士の命を軽々に扱う上官たち <br /><br />日本帝国陸軍、関東軍の非を探せば幾らでもあり、省みて将来に生かすのは必定成り <br /><br />しかれども彼らは戦い、我らは戦いを忌避し放棄し、自らの保身のみに汲々とする <br /><br />そんな無様な今の日本人に、戦った先人を非難する資格など露もない <br /><br />私はそう思っている <br /><br />強い日本を作った日本人が堂々と生きた満洲でありノモンハンである。 <br /><br />そこに行き、先人に感謝し哀悼を表す <br /><br />それが目的のノモンハンへの旅だ <br /><br />

ノモンハンへの道.旅たち前

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2008/05/13 - 2008/05/24

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明石DS

明石DSさん

諾門罕の戦場を訪ねて

ホロンバイル草原
ノモンハンの国境警備基地

外蒙古との国境付近

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旅への想い

ノモンハン事件

1939年、昭和14年5月11日、戦いは始まった

去年、雲南の拉孟・龍陵・騰越の戦跡を訪ね

迷いなく次はノモンハンに行こうと思っていた

戦後世に出ているノモンハンに関する戦記本は

関東軍上層部の驕りから来る稚拙な戦略の結果によって

無意味な戦いをし、多くの兵士をむざむざ死に至らしめたという

そんな批判・非難の内容ばかりである

確かに一面では的を得ていたとしても・・・。

私は、そうは断じて思わない、思えない

何故なら、彼らは「戦った」

辺境の地まで行き戦った

その事実だけで、その他の全てを許せるのだ

無能な高級参謀、自己保身に走る上級将校、兵士の命を軽々に扱う上官たち

日本帝国陸軍、関東軍の非を探せば幾らでもあり、省みて将来に生かすのは必定成り

しかれども彼らは戦い、我らは戦いを忌避し放棄し、自らの保身のみに汲々とする

そんな無様な今の日本人に、戦った先人を非難する資格など露もない

私はそう思っている

強い日本を作った日本人が堂々と生きた満洲でありノモンハンである。

そこに行き、先人に感謝し哀悼を表す

それが目的のノモンハンへの旅だ

航空会社
中国南方航空

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  • 2003年に干上がったホルステン河<br /><br />・・・・・・・・<br /><br />2008.平成20年1月8日(火)<br /><br />■ノモンハンへ行こう<br /><br /><br />1939年・昭和14年5月11日〜同年9月16日<br />ノモンハンで日ソ両軍は死闘を演じた。 <br /><br />去年は雲南省の拉孟・龍陵・騰越の戦跡を訪ね感動した。 <br /><br />実はその時も第一次候補はノモンハンだったが飛行機の格安切符が手に入らず行き先を変えた。ようするに行きたいという気持ちがそれだけのことであったから・・・。 <br /><br />今年は昨年来から仕事が暇で旅行を実現できるか否か?今の所、定かではないが万難を排して行くつもりではある。 <br /><br />暮れに「八月の砲声:津本陽(著)」と「ノモンハンの夏:半藤一利(著)」の二冊を図書館で借り読んでいる。大体の概要は分かってきた。そしてノモンハン以来、敗戦後まで世を賑わした参謀「辻政信」とは一体どんな人物だったのか・・・興味を持った。 <br /><br />「ノモンハンの夏」によって当時の日独伊三国同盟に結びつく経緯も少し理解できた。そして満洲国設立以来、満蒙の国境定かではなく外蒙古とソ連が一体化し国境を脅かされていた。 <br /><br />そんな中で日本はドイツと手を組みソ連からの脅威を回避し、その間に泥沼化する支那事変の解決を見出そうとしていた。「支那と戦争をしながらソ連とも戦う」という同時進行は出来ぬとして・・・。 <br /><br />陸軍はドイツとの提携を強く望み、それによって英米と対峙することを避けたい海軍と真っ向対立していた。その海軍の反対派の急先鋒が山本五十六だったの・・・か。日独伊三国同盟は外相:松岡洋介の独断に近い同盟締結であり、その責任は一手に松岡にあるように思っていたがそうではないようだ。 <br /><br />陸軍は無論、世間も、右翼も日本全体が世界の動きに焦ってドイツとの連携を望む空気があったようだ。 <br /><br />ノモンハンとは小さな集落の名前であり、ラマ僧の役職名だそうである。最高位の生け仏を「フトフク」といい、次に位置する役職が「ノモンハン」という名の位だそうだ。その地に高僧の墓があったのでそれが地名になったとのこと。 <br /><br />ノモンハンのある地域はホロンバイルといい広さはざっと九州くらいで一望千里、無人の広漠とした砂丘と草原が広がる地である。そしてここに流れるハルハ河が満蒙の国境紛争になった。 <br /><br />ホロンバイルにはホロン湖とボイル(バイル)湖をはじめ幾つかの湖沼があるが、そのほとんどは塩水である。しかしハルハ河と支流のホルステン河は透明な真水であり、馬や羊にとっては貴重であった。 <br /><br />そのハルハ河の領有を巡っての国境紛争がノモンハン事件である。 <br /><br /><br /><br />--------------------------------------------------------------------------------<br />2008.平成20年3月14日(金)<br /><br />■航空券の手配<br /><br /><br />最初は{関空〜北京〜海拉尓〜満洲里〜海拉尓〜北京〜関空}を思っていたが、計画を変更して{関空〜哈尓濱〜斉斉哈尓〜海拉尓〜満洲里〜哈尓濱〜関空}の行程になった。 <br /><br />その為の航空券を手配しかけた所で、長男が中国南方航空のマイルが貯まっており使わないから譲ってもらった。お蔭で往復ビジネスクラスの旅となった。初めての経験である。 <br /><br />汚い格好でビジネス席に向かうのは気が引けるが、もぐりで行くわけでもなく堂々と行こう。過去に格安席の航空券ながら、ダブルブッキングで急遽ビジネスに坐ったことも二度ある。一度は関空〜上海、二度目は去年、ベトナム・ホーチミン空港〜関空まで・・・。 <br /><br />関空〜哈尓濱往復、キャンセルしたが格安の航空券は以下の通り、アセアナ航空(韓国)でソウル経由である。 <br /><br />・・・・・・・・・・・<br />●旅行日程<br />アシアナ航空(OZ)エコノミークラス<br />---------------------------------<br />5/08 関空→ソウル  OZ115 09:30-11:25<br />5/08 ソウル→ハルピン OZ339 12:30-13:45<br />---------------------------------<br />5/20 ハルピン→ソウル OZ340 14:45-18:10<br />5/20 ソウル→関空 OZ116 19:10-20:50<br />---------------------------------<br />チケットタイプ:FIX3-21日間(変更不可) <br /><br />●料金<br />・航空券代金¥45,000<br />・関西国際空港使用料¥2,650<br />・航空保険超過負担料¥1,600<br />・海外空港税¥1,500<br />・燃油特別付加運賃¥11,800<br />[合計¥62,550] <br /><br />*原油価格高騰による燃油特別付加運賃値上げの可能性があります。<br />その際は、再請求となりますので予めご了承ください。 <br /><br />?アトムツアー 【本社営業所】<br />〒650-0023<br />神戸市中央区栄町1丁目2-1/建栄ビル5階<br />TEL:078-331-2777<br />FAX:078-391-1967<br />HP:http://www.atomtour.co.jp/<br />e-mail:nakashima@atomtour.co.jp <br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・ <br /><br />中国南方航空:関空〜哈尓濱、往復ともビジネス席 <br /><br />5月13日(火) CZ696 関空〜哈爾濱 13:10〜15:10<br />5月24日(土) CZ695 哈爾濱〜関空 08:10〜12:10 <br /><br />日程は、5月13日(火)〜5月24日(土)11泊12日の旅に決定す。 <br /><br />コースは今のところ・・・↓。 <br /><br />13日(火)関空〜哈爾濱<br />14日(水)哈爾濱<br />15日(木)哈爾濱〜斉斉哈爾(バスor列車)<br />16日(金)斉斉哈爾<br />17日(土)斉斉哈爾〜海拉爾(バスor列車)<br />18日(日)海拉爾<br />19日(月)海拉爾<br />20日(火)海拉爾〜満洲里(バス)<br />21日(水)満洲里<br />22日(木)満洲里〜哈爾濱(寝台夜行列車)<br />23日(金)哈爾濱<br />24日(土)哈爾濱〜関空 <br /><br />ノモンハンに行こうと思ってからその関係の本を順次読み加えていった。 <br /><br />「ノモンハン隠された戦争:鎌倉英也(著)」<br />「参謀辻政信・伝奇」<br />「辻政信と七人の僧」<br />「遥かなるノモンハン:星亮一」 <br /><br />その中で参謀・辻政信大佐は悪の権化のように書かれていることが多い。「辻政信と七人の僧」だけは辻政信に好意的な内容の本だった。 <br /><br />去年、雲南戦跡である「拉孟・龍陵・騰越」を旅した時も、辻政信はこの戦争にも参謀として参加している。そんなことから辻大佐に興味が段々と湧いてきて辻の著書である「潜行三千里」を読み終え、今はビルマ・雲南の戦いを書いた「十五対一」を半分読んだ。 <br /><br />私の辻政信の評価は、今のところ「頼もしい軍人であり勇者である・・・」<br />「筋骨隆々」筋金入りの軍人であり、映画ダイハードの主役・ジョン・マクレーンを彷彿とさせる。 <br /><br />「プロの戦争屋」であり、最前線の修羅場でこれほど頼りになる指揮官はいないだろう。冷徹な戦略を練り部隊を躊躇なく死地に向かわすが、己も同様に迷わず修羅場に向かう。 <br /><br />一敗地にまみれても自ら責任をとって腹を切るなどということはこの男に限って脳裏にない。大空の勇者が特攻に行かなかったように、辻も例えその場は敗れても日本軍がある限り、次の挽回を期して戦い続ける男なのだ。 <br /><br />彼に潔く高潔な将官像を求めても筋違いと言うものである。そして辻は卑怯者でもなく臆病者でもなく、ガムシャラに勝ちを求めて容赦なく瀕死の現存部隊を掻き集めてでも戦い続けようとする軍人なのだ。 <br /><br />それが今の私の参謀:辻政信大佐の分析だ。<br />辻をいたずらに非難する世間には、私は組しない。 <br /><br /><br />

    2003年に干上がったホルステン河

    ・・・・・・・・

    2008.平成20年1月8日(火)

    ■ノモンハンへ行こう


    1939年・昭和14年5月11日〜同年9月16日
    ノモンハンで日ソ両軍は死闘を演じた。

    去年は雲南省の拉孟・龍陵・騰越の戦跡を訪ね感動した。

    実はその時も第一次候補はノモンハンだったが飛行機の格安切符が手に入らず行き先を変えた。ようするに行きたいという気持ちがそれだけのことであったから・・・。

    今年は昨年来から仕事が暇で旅行を実現できるか否か?今の所、定かではないが万難を排して行くつもりではある。

    暮れに「八月の砲声:津本陽(著)」と「ノモンハンの夏:半藤一利(著)」の二冊を図書館で借り読んでいる。大体の概要は分かってきた。そしてノモンハン以来、敗戦後まで世を賑わした参謀「辻政信」とは一体どんな人物だったのか・・・興味を持った。

    「ノモンハンの夏」によって当時の日独伊三国同盟に結びつく経緯も少し理解できた。そして満洲国設立以来、満蒙の国境定かではなく外蒙古とソ連が一体化し国境を脅かされていた。

    そんな中で日本はドイツと手を組みソ連からの脅威を回避し、その間に泥沼化する支那事変の解決を見出そうとしていた。「支那と戦争をしながらソ連とも戦う」という同時進行は出来ぬとして・・・。

    陸軍はドイツとの提携を強く望み、それによって英米と対峙することを避けたい海軍と真っ向対立していた。その海軍の反対派の急先鋒が山本五十六だったの・・・か。日独伊三国同盟は外相:松岡洋介の独断に近い同盟締結であり、その責任は一手に松岡にあるように思っていたがそうではないようだ。

    陸軍は無論、世間も、右翼も日本全体が世界の動きに焦ってドイツとの連携を望む空気があったようだ。

    ノモンハンとは小さな集落の名前であり、ラマ僧の役職名だそうである。最高位の生け仏を「フトフク」といい、次に位置する役職が「ノモンハン」という名の位だそうだ。その地に高僧の墓があったのでそれが地名になったとのこと。

    ノモンハンのある地域はホロンバイルといい広さはざっと九州くらいで一望千里、無人の広漠とした砂丘と草原が広がる地である。そしてここに流れるハルハ河が満蒙の国境紛争になった。

    ホロンバイルにはホロン湖とボイル(バイル)湖をはじめ幾つかの湖沼があるが、そのほとんどは塩水である。しかしハルハ河と支流のホルステン河は透明な真水であり、馬や羊にとっては貴重であった。

    そのハルハ河の領有を巡っての国境紛争がノモンハン事件である。



    --------------------------------------------------------------------------------
    2008.平成20年3月14日(金)

    ■航空券の手配


    最初は{関空〜北京〜海拉尓〜満洲里〜海拉尓〜北京〜関空}を思っていたが、計画を変更して{関空〜哈尓濱〜斉斉哈尓〜海拉尓〜満洲里〜哈尓濱〜関空}の行程になった。

    その為の航空券を手配しかけた所で、長男が中国南方航空のマイルが貯まっており使わないから譲ってもらった。お蔭で往復ビジネスクラスの旅となった。初めての経験である。

    汚い格好でビジネス席に向かうのは気が引けるが、もぐりで行くわけでもなく堂々と行こう。過去に格安席の航空券ながら、ダブルブッキングで急遽ビジネスに坐ったことも二度ある。一度は関空〜上海、二度目は去年、ベトナム・ホーチミン空港〜関空まで・・・。

    関空〜哈尓濱往復、キャンセルしたが格安の航空券は以下の通り、アセアナ航空(韓国)でソウル経由である。

    ・・・・・・・・・・・
    ●旅行日程
    アシアナ航空(OZ)エコノミークラス
    ---------------------------------
    5/08 関空→ソウル  OZ115 09:30-11:25
    5/08 ソウル→ハルピン OZ339 12:30-13:45
    ---------------------------------
    5/20 ハルピン→ソウル OZ340 14:45-18:10
    5/20 ソウル→関空 OZ116 19:10-20:50
    ---------------------------------
    チケットタイプ:FIX3-21日間(変更不可)

    ●料金
    ・航空券代金¥45,000
    ・関西国際空港使用料¥2,650
    ・航空保険超過負担料¥1,600
    ・海外空港税¥1,500
    ・燃油特別付加運賃¥11,800
    [合計¥62,550]

    *原油価格高騰による燃油特別付加運賃値上げの可能性があります。
    その際は、再請求となりますので予めご了承ください。

    ?アトムツアー 【本社営業所】
    〒650-0023
    神戸市中央区栄町1丁目2-1/建栄ビル5階
    TEL:078-331-2777
    FAX:078-391-1967
    HP:http://www.atomtour.co.jp/
    e-mail:nakashima@atomtour.co.jp

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    中国南方航空:関空〜哈尓濱、往復ともビジネス席

    5月13日(火) CZ696 関空〜哈爾濱 13:10〜15:10
    5月24日(土) CZ695 哈爾濱〜関空 08:10〜12:10

    日程は、5月13日(火)〜5月24日(土)11泊12日の旅に決定す。

    コースは今のところ・・・↓。

    13日(火)関空〜哈爾濱
    14日(水)哈爾濱
    15日(木)哈爾濱〜斉斉哈爾(バスor列車)
    16日(金)斉斉哈爾
    17日(土)斉斉哈爾〜海拉爾(バスor列車)
    18日(日)海拉爾
    19日(月)海拉爾
    20日(火)海拉爾〜満洲里(バス)
    21日(水)満洲里
    22日(木)満洲里〜哈爾濱(寝台夜行列車)
    23日(金)哈爾濱
    24日(土)哈爾濱〜関空

    ノモンハンに行こうと思ってからその関係の本を順次読み加えていった。

    「ノモンハン隠された戦争:鎌倉英也(著)」
    「参謀辻政信・伝奇」
    「辻政信と七人の僧」
    「遥かなるノモンハン:星亮一」

    その中で参謀・辻政信大佐は悪の権化のように書かれていることが多い。「辻政信と七人の僧」だけは辻政信に好意的な内容の本だった。

    去年、雲南戦跡である「拉孟・龍陵・騰越」を旅した時も、辻政信はこの戦争にも参謀として参加している。そんなことから辻大佐に興味が段々と湧いてきて辻の著書である「潜行三千里」を読み終え、今はビルマ・雲南の戦いを書いた「十五対一」を半分読んだ。

    私の辻政信の評価は、今のところ「頼もしい軍人であり勇者である・・・」
    「筋骨隆々」筋金入りの軍人であり、映画ダイハードの主役・ジョン・マクレーンを彷彿とさせる。

    「プロの戦争屋」であり、最前線の修羅場でこれほど頼りになる指揮官はいないだろう。冷徹な戦略を練り部隊を躊躇なく死地に向かわすが、己も同様に迷わず修羅場に向かう。

    一敗地にまみれても自ら責任をとって腹を切るなどということはこの男に限って脳裏にない。大空の勇者が特攻に行かなかったように、辻も例えその場は敗れても日本軍がある限り、次の挽回を期して戦い続ける男なのだ。

    彼に潔く高潔な将官像を求めても筋違いと言うものである。そして辻は卑怯者でもなく臆病者でもなく、ガムシャラに勝ちを求めて容赦なく瀕死の現存部隊を掻き集めてでも戦い続けようとする軍人なのだ。

    それが今の私の参謀:辻政信大佐の分析だ。
    辻をいたずらに非難する世間には、私は組しない。


  • ノモンハン村と、水量の減ったアブダラ湖<br /><br />・・・・・・・・・・<br /><br />2008.平成20年3月23日(日)<br /><br />■ノモンハンと満洲<br /><br /><br />「ノモンハン事件:越智春海(著)」<br />「ノモンハン・ハルハ河戦争」<br />「闇に消えた参謀 辻政信:霧台弘(著)」<br />「シャオハイの満洲:江成常夫(著」<br />「されど、わが満洲」 <br /><br />上記の本を図書館で借りたり、アマゾンで買って今手元にある。俺って読書家になったのか?? <br /><br /><br /><br /><br /><br />--------------------------------------------------------------------------------<br />2008.平成20年4月10日(木)<br /><br />■本を読み<br /><br /><br />ノモンハン事件を追いながら辻政信に興味を持ち、何冊かの本を読む内に辻政信の私の評価も大体固まってきた。 <br /><br />そして当時の日本軍のことも以前に比べて自分なりにではあるが少し実情が分かって来た。それがどの程度的を得たものかはまだまだ勉強不足なので自信はないが、以前に比べてである。 <br /><br />私の現時点での辻政信に対しての評価は・・・。<br />軍人としてすこぶる実戦即応能力が高く、どんな戦地であってもその状況を自ら把握し、それに対応すべく部隊をまとめ戦う集団に作り上げる統率力と実行力には抜群のものがある。 <br /><br />参謀としても、その戦場全体の状況を察知し戦略的に部隊を配置し、臨機応変、果敢に決断命令を発する能力はすこぶる優秀だ。 <br /><br />ただ辻政信は少佐〜大佐といった階級であり、彼の上に多くの更なる上位命令権者が有したはずだ。なのに何処の戦場に置いても辻参謀が赴任すれば辻の進言通りに事が進み、日本軍としての本来の指揮系統があやふやになってしまっている。 <br /><br />その結果なるべくしてなのか辻の増長によって幾多の齟齬が起こってしまい辻は非難の対象ともなるべき軍人になっている。現実に多くの判断ミスもしているのだろう。例えばガダルカナル戦での川口清健少将との意見の食い違いによる作戦遂行直前の罷免などはその最たるものだと思う。 <br /><br />その他にも、辻自身の自信過剰による作戦ミスも多くあったのかもしれない。それでも第一線で重宝され続けたのが辻の辻たる所以なのだ。 <br /><br />辻にまつわる多くの問題は辻政信本人の責任というより、辻を上手く使い切れなかった上官のだらしなさ、それこそが当時の日本軍の問題だと思う。辻はその行動からも目立ち過ぎ、やり過ぎ、その分非難の渦中になることも多いが、その果敢で強引な行動力は文句を付けにくい。 <br /><br />逆に言えば辻を上手く使うべき高級軍人が官僚的になりすぎ何も決断できず辻に翻弄されたのだと感じる。本当に非難されるべきは、辻より遥かに高位な立場でありながら自分の身の保全と常に消極的な戦争行動に終始しながら戦後も批判の矢面から外れている真に卑怯なる面々だ。 <br /><br />当時の日本軍の年齢の高い高級将校たちの中には官僚的で優柔不断な人物も多かったように感じる。 <br /><br />またノモンハン事件と辻政信の他に、終戦後の満洲から引揚者や残留孤児を題材にした本を読み当時の満洲の様子が分かり、戦争で起こりえる悲惨をまざまざと感じている。 <br /><br />「されど、わが満洲」文藝春秋編を読めば、いろんな立場の方々が敗戦後の満洲逃避行を回顧談として書かれており興味深い。人の生死に係わる緊迫した状況では数限りない苦難のドラマが生まれる。 <br /><br />今の日々平穏なる日本の生活からは想像できないほどの悲劇・惨劇が、敗戦とともに日常になる。そこには生き地獄のような場面が、多種多様の異なった状況下で発生していた。 <br /><br />そんな境遇を幸運にも生き延びて語っているのである。そしてそんな極限状況だからこそ人間の様が、あからさまになり「真に立派な人」「卑怯な人」「普通の人」の違いが如実に浮き彫りになる。 <br /><br />そんな生き地獄の経験をし生き延びた方々のその後の人生はどのようなものなのか? <br /><br />そんな魑魅魍魎の修羅場を生んだ大東亜戦争を今の私はどう見るのか・・・以下に記す。 <br /><br />日本が戦った大東亜戦争は当時の世界情勢の中で、唯一有色人種国家として白人欧米列強国に伍し、世界の中でその独立を保ち続けて行くために戦った戦争である。覇権主義全盛時代それが日本の自存自衛のために必要であったからだ。私は苦渋の選択の中、戦うことを選んだ父祖に万感の敬意を抱いている。 <br /><br />そして国民も共に一丸となり戦い、結果は敗れた。そして終戦後の満洲では筆舌に表せないような事態を招いた。それが戦争というものだ。戦争の惨劇を多く知ることは哀しいが、それでも尚且つ戦った父祖の決断を間違いではないと私は確信している。 <br /><br />もし、あの時代あの時、白人列強に屈し戦わずして日本が満洲を放棄し、支那から手を引き朝鮮半島・台湾を手放せば、今の世界は、今の状況よりも素晴らしい世界が実現していたとは到底思えない。 <br /><br />例え日本の大儀が自己中心的であったとしても「大東亜共栄権」「八紘一宇」というのは少なからずの意味があり、それまで白人が世界の有色人種国家のほとんどを植民地にしていたことを考えると、そんな白人連合国に仕方なくも戦いを挑んだ日本の行為は歴史的に世界のその後を変革したのだ。 <br /><br />日本は敗れたが大東亜戦争を契機に、戦後アジアの植民地国はそのほとんどが独立を果たし、戦前とは大きく違う世界が開かれた。 <br /><br />当時は日本の台頭に米国を初めとして白人は嫌悪感を持ち始め「黄禍論」が渦まきだした頃である。時の米国大統領ルーズベルトは特に日本人を嫌っていた。 <br /><br />どんなに日本が米国と交渉をしようが彼の脳裏には「日本を叩き潰したい・・・」という願望があり、それが日本が好むと好まざると戦争への道に引き寄せられる最大の要因だったと信じる。そんな状況の中で白人列強と戦うことなくその軍門にひれ伏していたならきっと世界の有色人種国家は今も尚、植民地国家としてあり続け、それが世界の体制として定着していたかもしれない。 <br /><br />私は戦後の拝金主義・経済至上主義の今の日本を恥じている。その上占領下の憲法を未だに堅持し、米国に自国の安全保障を委ねた属国日本であるくせにそんな情けない自らを棚に挙げ戦った先人を悪し様に言う。そして日本の領土内から拉致された同胞を四半世紀経っても奪還できない。軍事力の行使をしてでも救おうともしない。そんな今の日本に絶望感すら抱いている。 <br /><br />父祖たちが勇躍世界に羽ばたいた時代の日本を素直に考えたい、そして彼らが戦った地を見てみたい。満洲という場所は何故か強き良き時代の日本を感じ郷愁を誘う。だからそこに行きたくなる。無論当時の世界情勢の中では関東軍の手による満洲建国は是であった。そのまま満洲国が存在していればと思う。 <br /><br />しかし今の時代は違う。そして私も今の中共政府のチベット・新疆ウィグル・内蒙古などへの侵略、そして同化政策を目の当たりにして、如何なる理由があろうと如何なる小さな国であろうと、相手側に望まれない限り他民族が支配することは許されざることだと思っている。 <br /><br />そんな私だが過去の歴史においては、その時々の価値観があり世界の趨勢がある。過去の日本人が行った行為に対し、今の価値観で非を唱えたり、相手国に謝罪するなどは全く無用であり、それこそ父祖を冒涜し自国の名誉を傷つけることに他ならない。それが歴史というものだ。 <br /><br />哈尓濱、斉斉哈尓、海拉尓、満洲里・・・そしてノモンハン<br />そこで空気を吸い景色を見て昔を懐かしみ感傷に耽るぞ。 <br />

    ノモンハン村と、水量の減ったアブダラ湖

    ・・・・・・・・・・

    2008.平成20年3月23日(日)

    ■ノモンハンと満洲


    「ノモンハン事件:越智春海(著)」
    「ノモンハン・ハルハ河戦争」
    「闇に消えた参謀 辻政信:霧台弘(著)」
    「シャオハイの満洲:江成常夫(著」
    「されど、わが満洲」

    上記の本を図書館で借りたり、アマゾンで買って今手元にある。俺って読書家になったのか??





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    2008.平成20年4月10日(木)

    ■本を読み


    ノモンハン事件を追いながら辻政信に興味を持ち、何冊かの本を読む内に辻政信の私の評価も大体固まってきた。

    そして当時の日本軍のことも以前に比べて自分なりにではあるが少し実情が分かって来た。それがどの程度的を得たものかはまだまだ勉強不足なので自信はないが、以前に比べてである。

    私の現時点での辻政信に対しての評価は・・・。
    軍人としてすこぶる実戦即応能力が高く、どんな戦地であってもその状況を自ら把握し、それに対応すべく部隊をまとめ戦う集団に作り上げる統率力と実行力には抜群のものがある。

    参謀としても、その戦場全体の状況を察知し戦略的に部隊を配置し、臨機応変、果敢に決断命令を発する能力はすこぶる優秀だ。

    ただ辻政信は少佐〜大佐といった階級であり、彼の上に多くの更なる上位命令権者が有したはずだ。なのに何処の戦場に置いても辻参謀が赴任すれば辻の進言通りに事が進み、日本軍としての本来の指揮系統があやふやになってしまっている。

    その結果なるべくしてなのか辻の増長によって幾多の齟齬が起こってしまい辻は非難の対象ともなるべき軍人になっている。現実に多くの判断ミスもしているのだろう。例えばガダルカナル戦での川口清健少将との意見の食い違いによる作戦遂行直前の罷免などはその最たるものだと思う。

    その他にも、辻自身の自信過剰による作戦ミスも多くあったのかもしれない。それでも第一線で重宝され続けたのが辻の辻たる所以なのだ。

    辻にまつわる多くの問題は辻政信本人の責任というより、辻を上手く使い切れなかった上官のだらしなさ、それこそが当時の日本軍の問題だと思う。辻はその行動からも目立ち過ぎ、やり過ぎ、その分非難の渦中になることも多いが、その果敢で強引な行動力は文句を付けにくい。

    逆に言えば辻を上手く使うべき高級軍人が官僚的になりすぎ何も決断できず辻に翻弄されたのだと感じる。本当に非難されるべきは、辻より遥かに高位な立場でありながら自分の身の保全と常に消極的な戦争行動に終始しながら戦後も批判の矢面から外れている真に卑怯なる面々だ。

    当時の日本軍の年齢の高い高級将校たちの中には官僚的で優柔不断な人物も多かったように感じる。

    またノモンハン事件と辻政信の他に、終戦後の満洲から引揚者や残留孤児を題材にした本を読み当時の満洲の様子が分かり、戦争で起こりえる悲惨をまざまざと感じている。

    「されど、わが満洲」文藝春秋編を読めば、いろんな立場の方々が敗戦後の満洲逃避行を回顧談として書かれており興味深い。人の生死に係わる緊迫した状況では数限りない苦難のドラマが生まれる。

    今の日々平穏なる日本の生活からは想像できないほどの悲劇・惨劇が、敗戦とともに日常になる。そこには生き地獄のような場面が、多種多様の異なった状況下で発生していた。

    そんな境遇を幸運にも生き延びて語っているのである。そしてそんな極限状況だからこそ人間の様が、あからさまになり「真に立派な人」「卑怯な人」「普通の人」の違いが如実に浮き彫りになる。

    そんな生き地獄の経験をし生き延びた方々のその後の人生はどのようなものなのか?

    そんな魑魅魍魎の修羅場を生んだ大東亜戦争を今の私はどう見るのか・・・以下に記す。

    日本が戦った大東亜戦争は当時の世界情勢の中で、唯一有色人種国家として白人欧米列強国に伍し、世界の中でその独立を保ち続けて行くために戦った戦争である。覇権主義全盛時代それが日本の自存自衛のために必要であったからだ。私は苦渋の選択の中、戦うことを選んだ父祖に万感の敬意を抱いている。

    そして国民も共に一丸となり戦い、結果は敗れた。そして終戦後の満洲では筆舌に表せないような事態を招いた。それが戦争というものだ。戦争の惨劇を多く知ることは哀しいが、それでも尚且つ戦った父祖の決断を間違いではないと私は確信している。

    もし、あの時代あの時、白人列強に屈し戦わずして日本が満洲を放棄し、支那から手を引き朝鮮半島・台湾を手放せば、今の世界は、今の状況よりも素晴らしい世界が実現していたとは到底思えない。

    例え日本の大儀が自己中心的であったとしても「大東亜共栄権」「八紘一宇」というのは少なからずの意味があり、それまで白人が世界の有色人種国家のほとんどを植民地にしていたことを考えると、そんな白人連合国に仕方なくも戦いを挑んだ日本の行為は歴史的に世界のその後を変革したのだ。

    日本は敗れたが大東亜戦争を契機に、戦後アジアの植民地国はそのほとんどが独立を果たし、戦前とは大きく違う世界が開かれた。

    当時は日本の台頭に米国を初めとして白人は嫌悪感を持ち始め「黄禍論」が渦まきだした頃である。時の米国大統領ルーズベルトは特に日本人を嫌っていた。

    どんなに日本が米国と交渉をしようが彼の脳裏には「日本を叩き潰したい・・・」という願望があり、それが日本が好むと好まざると戦争への道に引き寄せられる最大の要因だったと信じる。そんな状況の中で白人列強と戦うことなくその軍門にひれ伏していたならきっと世界の有色人種国家は今も尚、植民地国家としてあり続け、それが世界の体制として定着していたかもしれない。

    私は戦後の拝金主義・経済至上主義の今の日本を恥じている。その上占領下の憲法を未だに堅持し、米国に自国の安全保障を委ねた属国日本であるくせにそんな情けない自らを棚に挙げ戦った先人を悪し様に言う。そして日本の領土内から拉致された同胞を四半世紀経っても奪還できない。軍事力の行使をしてでも救おうともしない。そんな今の日本に絶望感すら抱いている。

    父祖たちが勇躍世界に羽ばたいた時代の日本を素直に考えたい、そして彼らが戦った地を見てみたい。満洲という場所は何故か強き良き時代の日本を感じ郷愁を誘う。だからそこに行きたくなる。無論当時の世界情勢の中では関東軍の手による満洲建国は是であった。そのまま満洲国が存在していればと思う。

    しかし今の時代は違う。そして私も今の中共政府のチベット・新疆ウィグル・内蒙古などへの侵略、そして同化政策を目の当たりにして、如何なる理由があろうと如何なる小さな国であろうと、相手側に望まれない限り他民族が支配することは許されざることだと思っている。

    そんな私だが過去の歴史においては、その時々の価値観があり世界の趨勢がある。過去の日本人が行った行為に対し、今の価値観で非を唱えたり、相手国に謝罪するなどは全く無用であり、それこそ父祖を冒涜し自国の名誉を傷つけることに他ならない。それが歴史というものだ。

    哈尓濱、斉斉哈尓、海拉尓、満洲里・・・そしてノモンハン
    そこで空気を吸い景色を見て昔を懐かしみ感傷に耽るぞ。

  • ノモンハン村(諾門罕村)<br /><br />・・・・・・・・・・・・<br /><br />2008.平成20年4月17日(木)<br /><br />■戦跡に心引かれるのは・・・。<br /><br /><br />今の自分の存在は、遥か古(いにしえ)の私の祖先がこの地球上に誕生して以来途切れることなく奇跡的に命が継承された結果に他ならない。誰しもご先祖なくしては今の自分の存在はない。そして幸いにも日本人として私は生まれた。そして祖国日本も営々として国を守って来たご先祖があってこその今の日本がある。 <br /><br />その悠久の歴史の中に生きてきた時々の日本人は、国を疎んじ国を嫌い祖国日本を自ら滅ぼさんと欲した者が居るのだろうか? <br /><br />今の日本には地球市民を標榜し国家の解体を目論む似非平和主義者たちがいる。そしてそんな日本人たちは、大東亜戦争をただ単に負の歴史としてか捉えず、戦争や戦争に踏み込んだ父祖を糾弾し非難することが「善」であるとする偽善者でしかない。 <br /><br />私は戦争に踏み込んだ先人の決断を過ちだと言う日本人。日本軍が戦争において数々の残虐行為をしたなどと言う日本人。そんな日本人を誰であろうが軽蔑し、どこまでも一線を画す。 <br /><br />私はあくまでも「直き心」「直き眼差し」を持って先人の成したことを検証しこれからの自分の人生に生かしたい。 <br /><br />ノモンハンの戦い<br />いろんな本を読み私のノモンハン事件への考え方もまとまって来た。<br />簡単に言えば、これは外蒙古にソ連の傀儡政権を作ろうとしたスターリンの戦略によって起こるべくして起こった戦争であり。ソ連のしたたかさに比較すれば日本軍・関東軍の稚拙さを感じる。 <br /><br />まず満州を日本が建国した時には、外蒙古の愛国民族派は「喜んだ」<br />それまでソ連と支那という理不尽な大国に挟まれていた外蒙古にとっては、日本が統治する満州と言う新たな国の出現は自国の未来に半信半疑ながらも聊かの希望を与えたと思われる。 <br /><br />そして新国家「満州」と外蒙古には国境線が画定していなかった。<br />そんな時に、ノモンハンでは満洲国と外蒙古の国境紛争が起こりだした。最初は外蒙古も積極的に戦わず退いて満州里での話会いで決着させようという態度も見せていた。 <br /><br />しかしこの紛争をスターリンとスターリンの息の掛かった外蒙古のチョイバルサン一派が利用したのである。外蒙古を守るという大義名分で大規模なソ連軍を送り込み、それを契機に外蒙古をソ連の傀儡国家に仕立て上げた。 <br /><br />その意味ではこのノモンハン事件は、日本側から見れば確たる戦略もない関東軍上級将校の安易な戦争であり、稚拙な日本軍の戦いであったと思う。日本には当時は外蒙古からシベリアまで進出する意図も余裕もなく、ましてソ連を軍事的に屈服させ日本の覇権を拡大する野望は現実的ではなかったはずだ。田中上奏文 は支那の策謀であり一笑に付するのみだ。 <br /><br />そんなノモンハン事件によって、日本軍兵士は多大の犠牲を強いられた上に、まんまとソ連に利用され親満州としての友好国になり得たはずの外蒙古をソ連の属国としてしまった。その挙句、多くの外蒙古の真の愛国的な民族主義要人がソ連に送られ粛清され、スターリンに忠誠を誓ったチョイバルサンが傀儡政権の権力者とし外蒙古をソ連の言いなりの圧政属国としてしまったのである。 <br /><br />以上が私のノモンハン事件の認識である。 <br /><br />しかし兵士達はノモンハンで本当によく戦った。<br />日露戦争以降、ますますその存在を高め力を持った帝国陸海軍は、その組織の巨大化と共に官僚化し、その中で立身出世を果たした高級将校たちは保身を図り、事なかれ主義に染まり特に戦場でおいては消極的戦法を選択する上級将校が多くなっていた。 <br /><br />それに比して下級将校から兵卒に至るまで、どんな戦場に於テも概ね皇軍兵士として命令に殉じ祖国日本のために最後まで戦いぬいた。ノモンハンの戦いでもその状況はすでに顕在化していた。敵対したソ連のジューコフ元帥回想録によればスターリンの質問に答えてノモンハンで戦った日本軍の評価を次のように語っている。 <br /><br />『日本兵は戦闘に規律を持ち、真剣で頑強、特に防禦戦に強かった。若い指揮官はきわめてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦いました。決して捕虜にはならず、自決も躊躇しなかった。しかし、古参の士官、高級将校は訓練が不十分で、積極性がなく、紋切り型の行動でした。日本軍の戦車は老朽化で、装備も悪く、行動半径も小さく、ソ連の方が優れていました。ただし、飛行機は優勢でした。そうじて我々はいわゆる皇軍とよばれる精鋭と戦わねばなりませんでした。』 <br /><br />他にもWeb参照に拠れば↓以下抜粋<br />・・・・・・・・<br />この方面のソ連軍の指揮官は第57軍団長のジューコフ元帥だったが、その後対独戦の英雄となった歴戦の勇士である。そのジューコフは、戦後アメリカの軍事史研究家・ミシガン大学教授のロジャ・F・ハケット氏のインタビューで「戦歴中で最も困難だった戦いは何か」と聞かれ即座に「ノモンハンの戦いだ」と答えたという。<br />・・・・・・・・以上 <br /><br />敵軍の最高指揮官がノモンハンの戦いをそのように評価している。それが一番客観的な日本軍への評価にもなると信じる <br /><br />そして高級参謀・上級将校たちが官僚化された日本軍が、そのままの状態で大東亜戦争へと向い敗戦と言う結果になったことに禍根を残す。だがそんなこと「軍隊組織の硬直化、官僚化・・・」等々は長い人類の歴史と言うスパンでみれば、それが敗戦の決定的要因だと思わない。 <br /><br />いつの世も歴史の大きな流れという中で、その時々の為政者は、また軍の中枢にいる軍人は対応を求められ決断し実行していく。しかしながら世界は大きなうねりの如く、向う方向に向う。それは誰にも止めることは出来ないこともある。例え少しの方向転換と時間の長短はあったとしても・・・。 <br /><br />そんな「歴史の流れ」「歴史のうねり」というものを感じるようになった。<br />そしてそこに息づく民族国家の基本は人類誕生のその時に遡り悠久の歴史を経て形成されてきたもので、その時代背景がどうであろうが遥かな時を繋ぎ培った民族の文化・資質はそんなに変わりようはない。 <br /><br />江戸から維新を迎える時は、若者が勇躍日本を動かしそのまま世界の大国へと導いていった。そして大国としての形が整い組織は硬直化して行き軍隊も官僚組織のようになった。それが日露戦争とは異なる戦争形態に終始し、ノモンハンでも兵士は見事に敢闘したが日本は戦いに敗れた。そして巨大化・官僚化した軍隊組織はノモンハンの教訓を生かせず敗戦へと続く。 <br /><br />戦後、そんな過去を全否定し経済復興の旗印の下に一丸となって働き見事に経済大国になったが、人として日本人として一番大切な「恥を知る」という心を失いつつあるように思う。そして、そんな危惧が芽生えたことでやっと今、少しづつではあるが、過去を見直し父祖の果たした役割を正しく評価しようという日本人も増えてきたと感じる。 <br /><br />私は人生半ばを過ぎてやっと大東亜戦争の真実を知りたくなり、知らなかった英雄たちの戦い振りを知るようになった。勿論、英雄などと言う者は平時には中々出て来ようがない。戦争や大災害などで「命を賭して戦う」という自己犠牲の究極に直面した時に多くの英雄が生まれるのだ。 <br /><br />そんな英雄たちの戦いぶりを知ることによって日本人としての誇りと自信が保ち得るのだと信じる。「俺たちもいざとなったら国を守るために戦えるのだ・・・」と言う、どこかに同じ血が流れている子孫としての誇りである。 <br /><br />まだまだ私の知らない英雄たちが山ほどいる。如何に戦後の日本人は彼らを葬り、自らは米国の属国に甘んじたまま似非平和を掲げ偽善者の如く装って生きて来たのか?<br />恥を知れ!情けない限りだ。 <br /><br />Web頁で見つけたノモンハンの資料↓ <br /><br />ノモンハン...1 <br />http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u1.htm<br /><br /><br />-----------------------------------<br />2008.平成20年5月2日(金)<br /><br />■順路変更<br /><br /><br />最初は哈爾濱から斉斉哈爾、海拉爾、そして満洲里に向かって行こうと思っていたが、まず哈爾濱から一挙に満洲里に行き、そこから哈爾濱に戻って来る事にした。その方が安心感があるから。 <br /><br />13日(火)関空〜哈爾濱:泊<br />14日(水)哈爾濱:泊<br />15日(木)哈爾濱〜満洲里(夜行寝台列車:泊)<br />16日(金)満洲里:泊<br />17日(土)満洲里:泊<br />18日(日)満洲里〜海拉爾:泊(バス)<br />19日(月)海拉爾:泊<br />20日(火)海拉爾〜斉斉哈爾(バスor列車)<br />21日(水)斉斉哈爾:泊<br />22日(木)斉斉哈爾:泊<br />23日(金)斉斉哈爾〜哈爾濱:泊<br />24日(土)哈爾濱〜関空 <br /><br />星亮一(著)「遥かなるノモンハン」を読み上記のように日程を変更する。 <br />

    ノモンハン村(諾門罕村)

    ・・・・・・・・・・・・

    2008.平成20年4月17日(木)

    ■戦跡に心引かれるのは・・・。


    今の自分の存在は、遥か古(いにしえ)の私の祖先がこの地球上に誕生して以来途切れることなく奇跡的に命が継承された結果に他ならない。誰しもご先祖なくしては今の自分の存在はない。そして幸いにも日本人として私は生まれた。そして祖国日本も営々として国を守って来たご先祖があってこその今の日本がある。

    その悠久の歴史の中に生きてきた時々の日本人は、国を疎んじ国を嫌い祖国日本を自ら滅ぼさんと欲した者が居るのだろうか?

    今の日本には地球市民を標榜し国家の解体を目論む似非平和主義者たちがいる。そしてそんな日本人たちは、大東亜戦争をただ単に負の歴史としてか捉えず、戦争や戦争に踏み込んだ父祖を糾弾し非難することが「善」であるとする偽善者でしかない。

    私は戦争に踏み込んだ先人の決断を過ちだと言う日本人。日本軍が戦争において数々の残虐行為をしたなどと言う日本人。そんな日本人を誰であろうが軽蔑し、どこまでも一線を画す。

    私はあくまでも「直き心」「直き眼差し」を持って先人の成したことを検証しこれからの自分の人生に生かしたい。

    ノモンハンの戦い
    いろんな本を読み私のノモンハン事件への考え方もまとまって来た。
    簡単に言えば、これは外蒙古にソ連の傀儡政権を作ろうとしたスターリンの戦略によって起こるべくして起こった戦争であり。ソ連のしたたかさに比較すれば日本軍・関東軍の稚拙さを感じる。

    まず満州を日本が建国した時には、外蒙古の愛国民族派は「喜んだ」
    それまでソ連と支那という理不尽な大国に挟まれていた外蒙古にとっては、日本が統治する満州と言う新たな国の出現は自国の未来に半信半疑ながらも聊かの希望を与えたと思われる。

    そして新国家「満州」と外蒙古には国境線が画定していなかった。
    そんな時に、ノモンハンでは満洲国と外蒙古の国境紛争が起こりだした。最初は外蒙古も積極的に戦わず退いて満州里での話会いで決着させようという態度も見せていた。

    しかしこの紛争をスターリンとスターリンの息の掛かった外蒙古のチョイバルサン一派が利用したのである。外蒙古を守るという大義名分で大規模なソ連軍を送り込み、それを契機に外蒙古をソ連の傀儡国家に仕立て上げた。

    その意味ではこのノモンハン事件は、日本側から見れば確たる戦略もない関東軍上級将校の安易な戦争であり、稚拙な日本軍の戦いであったと思う。日本には当時は外蒙古からシベリアまで進出する意図も余裕もなく、ましてソ連を軍事的に屈服させ日本の覇権を拡大する野望は現実的ではなかったはずだ。田中上奏文 は支那の策謀であり一笑に付するのみだ。

    そんなノモンハン事件によって、日本軍兵士は多大の犠牲を強いられた上に、まんまとソ連に利用され親満州としての友好国になり得たはずの外蒙古をソ連の属国としてしまった。その挙句、多くの外蒙古の真の愛国的な民族主義要人がソ連に送られ粛清され、スターリンに忠誠を誓ったチョイバルサンが傀儡政権の権力者とし外蒙古をソ連の言いなりの圧政属国としてしまったのである。

    以上が私のノモンハン事件の認識である。

    しかし兵士達はノモンハンで本当によく戦った。
    日露戦争以降、ますますその存在を高め力を持った帝国陸海軍は、その組織の巨大化と共に官僚化し、その中で立身出世を果たした高級将校たちは保身を図り、事なかれ主義に染まり特に戦場でおいては消極的戦法を選択する上級将校が多くなっていた。

    それに比して下級将校から兵卒に至るまで、どんな戦場に於テも概ね皇軍兵士として命令に殉じ祖国日本のために最後まで戦いぬいた。ノモンハンの戦いでもその状況はすでに顕在化していた。敵対したソ連のジューコフ元帥回想録によればスターリンの質問に答えてノモンハンで戦った日本軍の評価を次のように語っている。

    『日本兵は戦闘に規律を持ち、真剣で頑強、特に防禦戦に強かった。若い指揮官はきわめてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦いました。決して捕虜にはならず、自決も躊躇しなかった。しかし、古参の士官、高級将校は訓練が不十分で、積極性がなく、紋切り型の行動でした。日本軍の戦車は老朽化で、装備も悪く、行動半径も小さく、ソ連の方が優れていました。ただし、飛行機は優勢でした。そうじて我々はいわゆる皇軍とよばれる精鋭と戦わねばなりませんでした。』

    他にもWeb参照に拠れば↓以下抜粋
    ・・・・・・・・
    この方面のソ連軍の指揮官は第57軍団長のジューコフ元帥だったが、その後対独戦の英雄となった歴戦の勇士である。そのジューコフは、戦後アメリカの軍事史研究家・ミシガン大学教授のロジャ・F・ハケット氏のインタビューで「戦歴中で最も困難だった戦いは何か」と聞かれ即座に「ノモンハンの戦いだ」と答えたという。
    ・・・・・・・・以上

    敵軍の最高指揮官がノモンハンの戦いをそのように評価している。それが一番客観的な日本軍への評価にもなると信じる

    そして高級参謀・上級将校たちが官僚化された日本軍が、そのままの状態で大東亜戦争へと向い敗戦と言う結果になったことに禍根を残す。だがそんなこと「軍隊組織の硬直化、官僚化・・・」等々は長い人類の歴史と言うスパンでみれば、それが敗戦の決定的要因だと思わない。

    いつの世も歴史の大きな流れという中で、その時々の為政者は、また軍の中枢にいる軍人は対応を求められ決断し実行していく。しかしながら世界は大きなうねりの如く、向う方向に向う。それは誰にも止めることは出来ないこともある。例え少しの方向転換と時間の長短はあったとしても・・・。

    そんな「歴史の流れ」「歴史のうねり」というものを感じるようになった。
    そしてそこに息づく民族国家の基本は人類誕生のその時に遡り悠久の歴史を経て形成されてきたもので、その時代背景がどうであろうが遥かな時を繋ぎ培った民族の文化・資質はそんなに変わりようはない。

    江戸から維新を迎える時は、若者が勇躍日本を動かしそのまま世界の大国へと導いていった。そして大国としての形が整い組織は硬直化して行き軍隊も官僚組織のようになった。それが日露戦争とは異なる戦争形態に終始し、ノモンハンでも兵士は見事に敢闘したが日本は戦いに敗れた。そして巨大化・官僚化した軍隊組織はノモンハンの教訓を生かせず敗戦へと続く。

    戦後、そんな過去を全否定し経済復興の旗印の下に一丸となって働き見事に経済大国になったが、人として日本人として一番大切な「恥を知る」という心を失いつつあるように思う。そして、そんな危惧が芽生えたことでやっと今、少しづつではあるが、過去を見直し父祖の果たした役割を正しく評価しようという日本人も増えてきたと感じる。

    私は人生半ばを過ぎてやっと大東亜戦争の真実を知りたくなり、知らなかった英雄たちの戦い振りを知るようになった。勿論、英雄などと言う者は平時には中々出て来ようがない。戦争や大災害などで「命を賭して戦う」という自己犠牲の究極に直面した時に多くの英雄が生まれるのだ。

    そんな英雄たちの戦いぶりを知ることによって日本人としての誇りと自信が保ち得るのだと信じる。「俺たちもいざとなったら国を守るために戦えるのだ・・・」と言う、どこかに同じ血が流れている子孫としての誇りである。

    まだまだ私の知らない英雄たちが山ほどいる。如何に戦後の日本人は彼らを葬り、自らは米国の属国に甘んじたまま似非平和を掲げ偽善者の如く装って生きて来たのか?
    恥を知れ!情けない限りだ。

    Web頁で見つけたノモンハンの資料↓

    ノモンハン...1
    http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u1.htm


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    2008.平成20年5月2日(金)

    ■順路変更


    最初は哈爾濱から斉斉哈爾、海拉爾、そして満洲里に向かって行こうと思っていたが、まず哈爾濱から一挙に満洲里に行き、そこから哈爾濱に戻って来る事にした。その方が安心感があるから。

    13日(火)関空〜哈爾濱:泊
    14日(水)哈爾濱:泊
    15日(木)哈爾濱〜満洲里(夜行寝台列車:泊)
    16日(金)満洲里:泊
    17日(土)満洲里:泊
    18日(日)満洲里〜海拉爾:泊(バス)
    19日(月)海拉爾:泊
    20日(火)海拉爾〜斉斉哈爾(バスor列車)
    21日(水)斉斉哈爾:泊
    22日(木)斉斉哈爾:泊
    23日(金)斉斉哈爾〜哈爾濱:泊
    24日(土)哈爾濱〜関空

    星亮一(著)「遥かなるノモンハン」を読み上記のように日程を変更する。

  • 諾門罕の国境監視塔からハルハ河方向を写す<br />蛇行するハルハ河?と、その時は思ったが、<br />帰国後「Google Earth」で確認したら、国境手前の小さな湖?のようだ。<br /><br />・・・・・・・・・<br /><br />2008.平成20年5月3日(土)<br /><br />■ノモンハンへの道<br /><br /><br />Web頁で↓参考になるのを見つけた。有り難い。<br /><br /><br />「抗戦」ガイドの旅 東北編〜ノモンハンその1<br /><br /><br />新版 中華的雑記帳 <br /><br />これで、もしかしたら行けるかもという感触を得た。乞うご期待である。 <br /><br />そして、旅のルートも・・・。<br />哈爾濱〜満洲里〜新巴爾虎右旗〜新巴爾虎左旗(xinbaerhuzuoqi)(阿穆古朗)〜ノモンハン〜海拉爾〜扎蘭屯(zhalantun)〜斉斉哈爾〜哈爾濱 <br /><br />上記ルートは一応の希望であり、この先どうなるか分からない。<br />Web頁で見て海拉爾〜阿穆古朗まではバスはあるが、満洲里から直接、阿穆古朗に行くバスがあれば良いのだが・・・。 <br /><br />今のところ、4月30日に中国哈爾濱海外旅游総公司の日本部<br />(0451)84687875:王旭(wangxu)に電話をして日本語で、哈爾濱のホテルを頼んだ。 <br /><br />マンハッタン¥220元を13,14日、そして23日の三日分を頼み、14日に日本語ガイドを最初は一日500元と言って来たのを200元に値切って商談成立した・・・けれども。 <br /><br />王旭から聞いた彼宛のEメールに送信したが返事が来ない。また、出発が近づいたら聞いている携帯番号に掛けようと思っている。 <br /><br />15日の夜行列車:軟臥の切符一枚頼まなければならない。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />--------------------------------------------------------------------------------<br />2008.平成20年5月4日(日)<br /><br />■王旭さんからメールが来た。<br /><br /><br />中国哈爾濱海外旅游総公司の日本部の王旭さんから返事が来た。メールアドレス 日本語・中文どちらもOK <br /><br />曼哈頓商務酒店(man ha dun shangwu jiudian) 三星<br />一泊¥220元 哈爾濱の宿が決まった。それと14日に日本語ガイドを頼んでいる。 <br /><br />そして予定を変更して哈爾濱から満洲里に行くことにしたので、その夜行寝台の軟臥(下鋪)を追加で頼んだら今度は折り返し直ぐにOKの返事が来た。 <br /><br />私の満洲への旅はとっくに始まっている。 <br /><br />ノモンハン事件から辻政信、そして満洲在留邦人だった方々の敗戦後の悲惨な逃避行、残留孤児になった方々の手記。そして瀬島龍三にも興味を持ち、その関係の本を読んでいる。 <br /><br />瀬島龍三・回想録「幾山河」<br />大東亜戦争の実相:瀬島龍三(著)<br />「不毛地帯」山崎豊子(著) <br /><br />幾山河 大東亜戦争の実相 瀬島(著)を読み、日本が満洲建国、シナ事変を経て大東亜戦争に繋がって行く経過が自分なりに分かって来た。あくまでも日本政府・陸海軍共々対米戦争だけは避けんとしながらも、まるで何か目に見えない大きな力によって吸引されるかのように対米戦争に突入していった。 <br /><br />確かに省みれば、日本側にも大きな戦略ミスがあったのだろうが・・・。私は第二次世界大戦、日本にとっての大東亜戦争は起こるべくして起こり歴史の運命だったと今もそう確信する。 <br /><br />最大の要因は、膨張する世界の大国が弱小国家を植民地にしながら覇権を競う時代に、アジアの有色人種である日本が急速にその一角に食い込み白人列強と肩を並べ彼らの利権を犯しだしたことによる・・・。 <br /><br />そんな日本に米国のルーズベルトに象徴される有色人種蔑視「黄禍論」が、地中深く溜まったマグマの噴火のごとく噴出し、理由は如何にあろうが日本を叩き潰したいというのが対米戦争の起因である。日本は米国と戦争する気もなく、したくなかった。 <br /><br />当時の白人列強国家の人種差別意識が仕掛けた戦争だと私の分析ではそう断じる。 <br /><br /><br />-------------------------------------------------<br />2008.平成20年5月7日(水)<br /><br />■海拉爾の旅行社に電話する。<br /><br /><br />{05〜06}地球の歩き方に載っている海拉爾の旅行社に電話をした。そしたら日本語を話せる日本人担当の人の携帯番号を教えてくれた。 <br /><br />彼に電話したら、やはり次々と勧められ満洲里のホテルの予約から阿穆古朗〜ノモンハン〜海拉爾まで日本語ガイドと車を段取りしてもらうことになった。今はまだ電話での遣り取りだが費用は車が三日間日本円:2万円、ガイド二日間300元+宿泊費50元=¥350元、それと食事代ということである。 <br /><br />それに海拉爾〜斉斉哈爾までの夜行列車:軟臥も頼んだ。一挙に旅行日程が決まった。この後、Eメールで遣り取りする予定だが、Eメールのアドレスを彼が英語が苦手で電話ではうまく言えないので会社から英語の得意な人に我が家に電話を掛けて来るという。 <br /><br />30分後だと言っていたが・・・。 <br /><br />約束どおり30分後に我が家に電話がありEメールアドレスを教えてもらった。しかし、聞き取りにくく結局、送信できずに今度はファックスでこちらのEメールアドレスを送ってくれと言われた。しかし我が家にファックスがなく、コンビ二も海外へのFAX送信はしていなくて結局パソコンからFAXを送ることにした。 <br /><br />そしてW/XPのヘルプを見ながら四苦八苦し、ファックスが送れるようにして送信した。それが何とか付いたようで電話があった。そして具体的な日程、見積もりを書いて送信したとのこと。早速、Outlook Express の受信蘭を見ると着信していた。 <br /><br />開くと添付書類がありワードに旅行の日程票と見積もりが記入されていた。 <br /><br />///////////////////////////<br />日 程 表<br />団体名(番号): 人数:1名<br />日 月/日 都会 交通機関 時間 日程   ホテル<br /><br /><br />(1)5月16日(金)<br />ハルピン満州里 電車 10:00 満州里着後ホテルへ(ガイド、車なし)泊:国際飯店2号楼 <br /><br />(2)5月17日(土)<br />満州里 専用車 終日 満州里市内観光、中ロ国境、満鉄社宅、日本人小学校(ガイド、車付)泊:国際飯店2号楼満州里 <br /><br />(3)5月18日(日)<br />満州里 ノモンハン 専用車 終日 ホロン湖、ノモンハン戦争陳列館、草原景色等(ガイド、車付)泊:甘株爾賓館阿木古朗 <br /><br />(4)5月19日(月)<br />アムゴロ ハイラル 専用車 終日 甘株爾廟の前にあるノモンハン戦争の司令部(ガイド、車付)泊:北苑賓館ハイラル <br /><br />(5)5月20日(火)<br />ハイラル 関東軍要塞 泊:北苑賓館ハイラル <br /><br />(6)5月21日(水)<br />ハイラル〜チチハル N58 22:50 N58便でチチハルへ <br /><br />      見積もり:<br />1、 ホテル代:200元/各地、部屋<br />2、 車代:2万円(17日から19日まで)<br />3、 ガイド料:150元*3日間=450元<br />4、 ガイドの宿泊料:50元/日*2日間=100元<br />            合計:1550元+2万円 <br /><br />ほかは:<br />ガイドと運転手の食事を負担してください。1食50元でいいとおもいますが。<br />満州里国際飯店の住所:満州里二道街35号 電話:0470-6248188<br />ガイド:○○○ モンゴル族、男 <br />最後にはハイラル市内では車を利用すると1日150元。<br /><br />海拉爾〜斉斉哈爾 一張火車票(軟臥)¥200元(手数料含む)<br /><br /><br />///////////////////// <br /><br />13日に哈爾濱に到着後、14日に日本語ガイドを¥200元頼んでいる。そして15日の夜、夜行で満洲里に向かい16日の朝に満洲里に到着する。 <br /><br /> その日は一人でぶらぶらして、17日から19日まで専用の車とガイドを付けて、最初は満洲里から阿穆古朗そしてノモンハン、海拉爾の二日間のコースで頼んだら・・・車が二日で2万円というので「高いわ、三日間でならどうや?」と聞いたら「それで良い・・・」と言うので結局三日間で頼んだ。 <br /><br />日本語ガイドも1日150元というので、この際、二日頼もうと思い、こっちはそう言ったはずなのに白布仁の送ってきた日程表にはガイドも三日間となっていた。まあいいか・・・と、言うことである。 <br /><br />満洲里、海拉爾はガイドブックにもそこそこ詳しいが、ノモンハンへの道程はノモンハン村の存在が中国語の字も分からず難儀していた。それもこれも一挙に解決したようだ。 <br /><br />「甘株爾廟」という地名もノモンハン事件の記述に出てくる名前だが、その場所に行けるというのは嬉しい。ノモンハン戦争の司令部跡がどんなものなのか? <br />

    諾門罕の国境監視塔からハルハ河方向を写す
    蛇行するハルハ河?と、その時は思ったが、
    帰国後「Google Earth」で確認したら、国境手前の小さな湖?のようだ。

    ・・・・・・・・・

    2008.平成20年5月3日(土)

    ■ノモンハンへの道


    Web頁で↓参考になるのを見つけた。有り難い。


    「抗戦」ガイドの旅 東北編〜ノモンハンその1


    新版 中華的雑記帳

    これで、もしかしたら行けるかもという感触を得た。乞うご期待である。

    そして、旅のルートも・・・。
    哈爾濱〜満洲里〜新巴爾虎右旗〜新巴爾虎左旗(xinbaerhuzuoqi)(阿穆古朗)〜ノモンハン〜海拉爾〜扎蘭屯(zhalantun)〜斉斉哈爾〜哈爾濱

    上記ルートは一応の希望であり、この先どうなるか分からない。
    Web頁で見て海拉爾〜阿穆古朗まではバスはあるが、満洲里から直接、阿穆古朗に行くバスがあれば良いのだが・・・。

    今のところ、4月30日に中国哈爾濱海外旅游総公司の日本部
    (0451)84687875:王旭(wangxu)に電話をして日本語で、哈爾濱のホテルを頼んだ。

    マンハッタン¥220元を13,14日、そして23日の三日分を頼み、14日に日本語ガイドを最初は一日500元と言って来たのを200元に値切って商談成立した・・・けれども。

    王旭から聞いた彼宛のEメールに送信したが返事が来ない。また、出発が近づいたら聞いている携帯番号に掛けようと思っている。

    15日の夜行列車:軟臥の切符一枚頼まなければならない。








    --------------------------------------------------------------------------------
    2008.平成20年5月4日(日)

    ■王旭さんからメールが来た。


    中国哈爾濱海外旅游総公司の日本部の王旭さんから返事が来た。メールアドレス 日本語・中文どちらもOK

    曼哈頓商務酒店(man ha dun shangwu jiudian) 三星
    一泊¥220元 哈爾濱の宿が決まった。それと14日に日本語ガイドを頼んでいる。

    そして予定を変更して哈爾濱から満洲里に行くことにしたので、その夜行寝台の軟臥(下鋪)を追加で頼んだら今度は折り返し直ぐにOKの返事が来た。

    私の満洲への旅はとっくに始まっている。

    ノモンハン事件から辻政信、そして満洲在留邦人だった方々の敗戦後の悲惨な逃避行、残留孤児になった方々の手記。そして瀬島龍三にも興味を持ち、その関係の本を読んでいる。

    瀬島龍三・回想録「幾山河」
    大東亜戦争の実相:瀬島龍三(著)
    「不毛地帯」山崎豊子(著)

    幾山河 大東亜戦争の実相 瀬島(著)を読み、日本が満洲建国、シナ事変を経て大東亜戦争に繋がって行く経過が自分なりに分かって来た。あくまでも日本政府・陸海軍共々対米戦争だけは避けんとしながらも、まるで何か目に見えない大きな力によって吸引されるかのように対米戦争に突入していった。

    確かに省みれば、日本側にも大きな戦略ミスがあったのだろうが・・・。私は第二次世界大戦、日本にとっての大東亜戦争は起こるべくして起こり歴史の運命だったと今もそう確信する。

    最大の要因は、膨張する世界の大国が弱小国家を植民地にしながら覇権を競う時代に、アジアの有色人種である日本が急速にその一角に食い込み白人列強と肩を並べ彼らの利権を犯しだしたことによる・・・。

    そんな日本に米国のルーズベルトに象徴される有色人種蔑視「黄禍論」が、地中深く溜まったマグマの噴火のごとく噴出し、理由は如何にあろうが日本を叩き潰したいというのが対米戦争の起因である。日本は米国と戦争する気もなく、したくなかった。

    当時の白人列強国家の人種差別意識が仕掛けた戦争だと私の分析ではそう断じる。


    -------------------------------------------------
    2008.平成20年5月7日(水)

    ■海拉爾の旅行社に電話する。


    {05〜06}地球の歩き方に載っている海拉爾の旅行社に電話をした。そしたら日本語を話せる日本人担当の人の携帯番号を教えてくれた。

    彼に電話したら、やはり次々と勧められ満洲里のホテルの予約から阿穆古朗〜ノモンハン〜海拉爾まで日本語ガイドと車を段取りしてもらうことになった。今はまだ電話での遣り取りだが費用は車が三日間日本円:2万円、ガイド二日間300元+宿泊費50元=¥350元、それと食事代ということである。

    それに海拉爾〜斉斉哈爾までの夜行列車:軟臥も頼んだ。一挙に旅行日程が決まった。この後、Eメールで遣り取りする予定だが、Eメールのアドレスを彼が英語が苦手で電話ではうまく言えないので会社から英語の得意な人に我が家に電話を掛けて来るという。

    30分後だと言っていたが・・・。

    約束どおり30分後に我が家に電話がありEメールアドレスを教えてもらった。しかし、聞き取りにくく結局、送信できずに今度はファックスでこちらのEメールアドレスを送ってくれと言われた。しかし我が家にファックスがなく、コンビ二も海外へのFAX送信はしていなくて結局パソコンからFAXを送ることにした。

    そしてW/XPのヘルプを見ながら四苦八苦し、ファックスが送れるようにして送信した。それが何とか付いたようで電話があった。そして具体的な日程、見積もりを書いて送信したとのこと。早速、Outlook Express の受信蘭を見ると着信していた。

    開くと添付書類がありワードに旅行の日程票と見積もりが記入されていた。

    ///////////////////////////
    日 程 表
    団体名(番号): 人数:1名
    日 月/日 都会 交通機関 時間 日程   ホテル


    (1)5月16日(金)
    ハルピン満州里 電車 10:00 満州里着後ホテルへ(ガイド、車なし)泊:国際飯店2号楼

    (2)5月17日(土)
    満州里 専用車 終日 満州里市内観光、中ロ国境、満鉄社宅、日本人小学校(ガイド、車付)泊:国際飯店2号楼満州里

    (3)5月18日(日)
    満州里 ノモンハン 専用車 終日 ホロン湖、ノモンハン戦争陳列館、草原景色等(ガイド、車付)泊:甘株爾賓館阿木古朗

    (4)5月19日(月)
    アムゴロ ハイラル 専用車 終日 甘株爾廟の前にあるノモンハン戦争の司令部(ガイド、車付)泊:北苑賓館ハイラル

    (5)5月20日(火)
    ハイラル 関東軍要塞 泊:北苑賓館ハイラル

    (6)5月21日(水)
    ハイラル〜チチハル N58 22:50 N58便でチチハルへ

          見積もり:
    1、 ホテル代:200元/各地、部屋
    2、 車代:2万円(17日から19日まで)
    3、 ガイド料:150元*3日間=450元
    4、 ガイドの宿泊料:50元/日*2日間=100元
                合計:1550元+2万円

    ほかは:
    ガイドと運転手の食事を負担してください。1食50元でいいとおもいますが。
    満州里国際飯店の住所:満州里二道街35号 電話:0470-6248188
    ガイド:○○○ モンゴル族、男 
    最後にはハイラル市内では車を利用すると1日150元。

    海拉爾〜斉斉哈爾 一張火車票(軟臥)¥200元(手数料含む)


    /////////////////////

    13日に哈爾濱に到着後、14日に日本語ガイドを¥200元頼んでいる。そして15日の夜、夜行で満洲里に向かい16日の朝に満洲里に到着する。

     その日は一人でぶらぶらして、17日から19日まで専用の車とガイドを付けて、最初は満洲里から阿穆古朗そしてノモンハン、海拉爾の二日間のコースで頼んだら・・・車が二日で2万円というので「高いわ、三日間でならどうや?」と聞いたら「それで良い・・・」と言うので結局三日間で頼んだ。

    日本語ガイドも1日150元というので、この際、二日頼もうと思い、こっちはそう言ったはずなのに白布仁の送ってきた日程表にはガイドも三日間となっていた。まあいいか・・・と、言うことである。

    満洲里、海拉爾はガイドブックにもそこそこ詳しいが、ノモンハンへの道程はノモンハン村の存在が中国語の字も分からず難儀していた。それもこれも一挙に解決したようだ。

    「甘株爾廟」という地名もノモンハン事件の記述に出てくる名前だが、その場所に行けるというのは嬉しい。ノモンハン戦争の司令部跡がどんなものなのか?

  • 国境監視塔から諾門罕村、アブダラ湖を写す<br /><br />車は乗ってきた専用車<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />2008.平成20年5月8日(木)<br /><br />■ガイドと運転手の食事代?<br /><br /><br />海拉爾のホロンバイル中国国際旅行社の成吉思(仮名)とメールを遣り取りしていたが、ガイドと運転手の食事代を一食:50元出してくれと書いているので、三人で一緒に食べないのか?一食二人分50元なのか?分からないので質問をした。 <br /><br />私から成吉思への質問↓5月7日 18:56<br />////////////////////////////<br />運転手とガイドの食事代はというのは三人で一緒に食べて、お金は私が払うと言うことですか?具体的に教えて下さい。食事代のことが良く分かりませんので。<br />/////////////////////////// <br /><br />成吉思からの回答↓5月7日 19:20<br />//////////////////////////<br />こんばんは<br />そうですね、ガイドと運転手の食事1食50元と計算すれば3日間で300元になりますね。 300元出してくださるとありがたいです。<br />お願いいたします。<br />///////////////////////// <br /><br />上記回答に対しての私からの再度の質問↓5月7日 20:37<br />///////////////////////////<br />ガイドと運転手、二人合わせて三日間300元ですか?<br />一緒に食べるのではなく、食事代としてお金を渡すのですか?<br />食事代を別に請求されるのは初めてなので、全くわかりません。<br />どうすれば良いのか具体的に教えてください。<br />//////////////////////////<br /><br /><br />成吉思の回答↓ 5月7日 22:27<br />///////////////////////////<br />こんばんは<br />ガイドと運転手の食事の事について:<br />もし○○様と一緒に食べる場合は食事代を渡さなくてもいいです。<br />食事が別に食べる場合は適当に渡したほうがいいと思いいます。(1食2人分最低で30元ぐらいでしょうね。そうすると3日間で180元になります)<br />//////////////////////////// <br /><br />上記回答に対しての私の返事↓5月7日 20:37<br />///////////////////////////<br />食事のこと、了解しました。<br />それでは宜しくお願いします<br />////////////////////////// <br /><br />成吉思からのメール↓ 5月8日 9:42<br />//////////////////<br />おはようございます。<br />17日の朝の9時半にガイドが○○様 と書いた紙を持ってロビで待ちます。<br />16日直接ホテルのフロントに行ってください。<br />////////////////// <br /><br />私の返事↓ 5月8日 18:32<br />//////////////////<br />上記、了解しました。<br />17日午前9時半ロビーで待っています。<br />ノモンハンに行けるのを楽しみにしています。<br />支払いは<br />17日最初、人民元¥1000元+日本円¥1万円<br />19日最後、人民元¥750元(火車費200元含む)+日本円¥1万円 <br /><br />↑これで宜しいですか?<br />再見!<br />////////////////// <br /><br />成吉思からのメール↓ 5月9日 12:31<br />//////////////////<br />こんにちは<br />ガイドが変わりましたが成吉思(私)で、携帯:<br />支払いは以上で大丈夫ですからご安心ください。<br />////////////////// <br /><br /><br />私の返事↓ 5月9日 17:26<br />//////////////////<br />了解しました。<br />哈拉哈河が遠くからでも見れれば良いのですが・・・。<br />ホルステン河と<br />ノモンハン村<br />それと、将軍廟、甘珠爾廟の場所へ行きたいです <br />それでは宜しくお願いします。<br />////////////////// <br /><br />成吉思からのメール↓ 5月9日 12:31<br />//////////////////<br />>哈拉哈河が遠くからでも見れれば良いのですが・・・。<br />遠くから見られます。 <br /><br />>ホルステン河と<br />ホルステン河もうかわきました。 <br /><br />>ノモンハン村<br />>それと、将軍廟、甘珠爾廟の場所へ行きたいです<br />将軍廟はもう何もない。<br />///////////////// <br /><br />成吉思との三日間の遣り取りで今回の私の旅のメーンであったノモンハンへの行程は決まった。あれだけ漠然としていたノモンハンがイメージできるようになった。インターネットの情報力に感謝するしかない。 <br /><br />この三日間で私なりの資料を作り、大体の位置関係も把握できた。中国のネットにあったノモンハンの写真が多く掲載されているHPも偶然のように見つけた。日本の本やHPにはない写真が沢山あったのには驚いた。お宝発見である。 <br /><br />日本第一次戦敗:1939年中蒙辺境諾門汗戦役回顧 <br /><br />そしてノモンハンの漢字が分かった。<br />諾門汗(Nuomenhan)と書く。(又称:諾門坎) <br /><br /><br />-----------------------------------------------<br />2008.平成20年5月12日(月)<br /><br />■もう翌日を迎える<br /><br /><br />早くも明日が出発の日だ。 <br /><br />最早、じたばたしても始まらずマイペースで行こう。 <br /><br />今朝、哈爾濱の王旭にメールで明日曼哈頓商務酒店に行くから宜しくとメールをした。 <br /><br />その返事が直ぐに以下の↓ように来た。 <br /><br />こんにちは!一切己経安排好了。(手配はすでに完了しています)ホテルに着いたら、フロントに貴方の名前を書いて入って下さい。宿泊費は旅行社が支払っています。費用は14日にガイドに一括払って下さい。ガイドは 王 男 手机電話: 着いたら彼に連絡をして下さい。以上,王旭  <br /><br />関空(発)13:10 ハルピン(着) 15:10 中国南方航空 CZ0696 南/ - MD90 <br /><br />初の堂々ビジネスクラスでの哈爾濱往復旅行である。明日の哈爾濱の天気は20℃〜8℃(晴れ)。私の感覚ではまだ冬だ。因みに満洲里の明日の気温は哈爾濱と変わらないが最低5℃ともっと寒い。 <br /><br />さあ哈爾濱の空港に降りてどうやって行こう?バスか?タクシーか? <br /><br />とにかく未だ荷物も整理できず。冬支度もあるのでリュックは満杯である。<br />無事を祈る。生きて帰ろう!ハハハ。 <br /><br /><br />

    国境監視塔から諾門罕村、アブダラ湖を写す

    車は乗ってきた専用車

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    2008.平成20年5月8日(木)

    ■ガイドと運転手の食事代?


    海拉爾のホロンバイル中国国際旅行社の成吉思(仮名)とメールを遣り取りしていたが、ガイドと運転手の食事代を一食:50元出してくれと書いているので、三人で一緒に食べないのか?一食二人分50元なのか?分からないので質問をした。

    私から成吉思への質問↓5月7日 18:56
    ////////////////////////////
    運転手とガイドの食事代はというのは三人で一緒に食べて、お金は私が払うと言うことですか?具体的に教えて下さい。食事代のことが良く分かりませんので。
    ///////////////////////////

    成吉思からの回答↓5月7日 19:20
    //////////////////////////
    こんばんは
    そうですね、ガイドと運転手の食事1食50元と計算すれば3日間で300元になりますね。 300元出してくださるとありがたいです。
    お願いいたします。
    /////////////////////////

    上記回答に対しての私からの再度の質問↓5月7日 20:37
    ///////////////////////////
    ガイドと運転手、二人合わせて三日間300元ですか?
    一緒に食べるのではなく、食事代としてお金を渡すのですか?
    食事代を別に請求されるのは初めてなので、全くわかりません。
    どうすれば良いのか具体的に教えてください。
    //////////////////////////


    成吉思の回答↓ 5月7日 22:27
    ///////////////////////////
    こんばんは
    ガイドと運転手の食事の事について:
    もし○○様と一緒に食べる場合は食事代を渡さなくてもいいです。
    食事が別に食べる場合は適当に渡したほうがいいと思いいます。(1食2人分最低で30元ぐらいでしょうね。そうすると3日間で180元になります)
    ////////////////////////////

    上記回答に対しての私の返事↓5月7日 20:37
    ///////////////////////////
    食事のこと、了解しました。
    それでは宜しくお願いします
    //////////////////////////

    成吉思からのメール↓ 5月8日 9:42
    //////////////////
    おはようございます。
    17日の朝の9時半にガイドが○○様 と書いた紙を持ってロビで待ちます。
    16日直接ホテルのフロントに行ってください。
    //////////////////

    私の返事↓ 5月8日 18:32
    //////////////////
    上記、了解しました。
    17日午前9時半ロビーで待っています。
    ノモンハンに行けるのを楽しみにしています。
    支払いは
    17日最初、人民元¥1000元+日本円¥1万円
    19日最後、人民元¥750元(火車費200元含む)+日本円¥1万円

    ↑これで宜しいですか?
    再見!
    //////////////////

    成吉思からのメール↓ 5月9日 12:31
    //////////////////
    こんにちは
    ガイドが変わりましたが成吉思(私)で、携帯:
    支払いは以上で大丈夫ですからご安心ください。
    //////////////////


    私の返事↓ 5月9日 17:26
    //////////////////
    了解しました。
    哈拉哈河が遠くからでも見れれば良いのですが・・・。
    ホルステン河と
    ノモンハン村
    それと、将軍廟、甘珠爾廟の場所へ行きたいです 
    それでは宜しくお願いします。
    //////////////////

    成吉思からのメール↓ 5月9日 12:31
    //////////////////
    >哈拉哈河が遠くからでも見れれば良いのですが・・・。
    遠くから見られます。

    >ホルステン河と
    ホルステン河もうかわきました。

    >ノモンハン村
    >それと、将軍廟、甘珠爾廟の場所へ行きたいです
    将軍廟はもう何もない。
    /////////////////

    成吉思との三日間の遣り取りで今回の私の旅のメーンであったノモンハンへの行程は決まった。あれだけ漠然としていたノモンハンがイメージできるようになった。インターネットの情報力に感謝するしかない。

    この三日間で私なりの資料を作り、大体の位置関係も把握できた。中国のネットにあったノモンハンの写真が多く掲載されているHPも偶然のように見つけた。日本の本やHPにはない写真が沢山あったのには驚いた。お宝発見である。

    日本第一次戦敗:1939年中蒙辺境諾門汗戦役回顧

    そしてノモンハンの漢字が分かった。
    諾門汗(Nuomenhan)と書く。(又称:諾門坎)


    -----------------------------------------------
    2008.平成20年5月12日(月)

    ■もう翌日を迎える


    早くも明日が出発の日だ。

    最早、じたばたしても始まらずマイペースで行こう。

    今朝、哈爾濱の王旭にメールで明日曼哈頓商務酒店に行くから宜しくとメールをした。

    その返事が直ぐに以下の↓ように来た。

    こんにちは!一切己経安排好了。(手配はすでに完了しています)ホテルに着いたら、フロントに貴方の名前を書いて入って下さい。宿泊費は旅行社が支払っています。費用は14日にガイドに一括払って下さい。ガイドは 王 男 手机電話: 着いたら彼に連絡をして下さい。以上,王旭

    関空(発)13:10 ハルピン(着) 15:10 中国南方航空 CZ0696 南/ - MD90

    初の堂々ビジネスクラスでの哈爾濱往復旅行である。明日の哈爾濱の天気は20℃〜8℃(晴れ)。私の感覚ではまだ冬だ。因みに満洲里の明日の気温は哈爾濱と変わらないが最低5℃ともっと寒い。

    さあ哈爾濱の空港に降りてどうやって行こう?バスか?タクシーか?

    とにかく未だ荷物も整理できず。冬支度もあるのでリュックは満杯である。
    無事を祈る。生きて帰ろう!ハハハ。


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