【山西省】 大同 * 世界遺産・雲崗石窟を辿る:彷徨人さんの旅行ブログ

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【山西省】 大同 * 世界遺産・雲崗石窟を辿る

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【山西省】 大同 * 世界遺産・雲崗石窟を辿る


             露座仏の 残り香の如 リラにほふ




  【雲崗石窟】のある大同市は、西は黄河以西の華北平原、北は草原と砂漠からなる内蒙古高原、東は太行山脈に囲まれた、山西省の最北部に位置し、その 周りのそれぞれの地形を一部に含む起伏に富んだ町である。嘗ては、平城と呼ばれていた。漢の高祖が匈奴に囲まれ、全滅するところを、匈奴王の夫人に賂を贈り、かろうじて脱出を図ることができた話も、1500年ほど前には、北魏の首都であったのも、遼、金の時代には、現在の10倍の面積があり、西京と呼ばれていたのも、ここ大同である。
  山西省は、足の下は何処も石炭だと言われているが、もちろん、この大同も炭鉱の街である。特に、雲崗石窟周辺は石炭山が連なり、嘗ては、石炭を積んだ馬車や、リヤカーが石窟前を往来し、石炭粉のため、この石窟は真っ黒であったようである。今でも、石窟から見渡せる山裾を、石炭を運ぶ専用の貨車が何十輌も繋がって走っているのが見える。又近くの道路を、石炭を満載して走っているトラックに出くわす。ここ山西省の炭鉱の落盤事故で、大勢の人が生き埋めになったというベタ記事を、時に日本の新聞で見つけることがある。位置・地勢からか、気候は、大陸型気候というより、砂漠のような様相を呈し、一日の寒暖の差も大きく、夏は、1000mぐらいの高度のせいか、比較的カラーッとしており、気温も27,8度前後であるが、冬になると、マイナス20度ぐらいまで下がり、春先には、黄塵万丈、黄砂が吹き荒れるという。山西省第二の都市大同は、比較的交通の便が良く、鉄道は、省都太原方面に向かう同蒲線と、北京から大同を通り、内蒙古のフフホト、包頭に向かう京包線が交差しており、近年は自動車道も順次整備されつつある。市の中心から東へ17キロの倍加造鎮に、2006年に開港した大同倍加造空港には、上海からは一日一便がある。僕は、この旅では、上海からこの飛行場へ、夕方に到着したのだ。

  山西省には、2002年、柳絮の飛び交う頃に、【太原】に行き、そこから、清朝順治帝の秘めたる恋を描いた小説【五台山清涼寺】の恋物語を追い掛けて、中国四大仏教霊地のひとつ、【五台山】に、僕は行ったことがある。その時に、比叡山の延暦寺第三代座主円仁さんが、この地に巡礼して来たと言うことも知ったのだ。その後、平遥まで足を伸ばしたのだが、平遥城内を観光するために乗った輪タクの老親方が、ペダルを踏みながら、突然日本の童謡を歌い出した。何処で覚えたのかと聞いたら、日本兵に教えてもらったと言うのではないか。
  中国を旅し始めたころは、日本兵がここに来たとか、何をしたとかと言う話をよく聞かされた。江沢民時代に、日本の中国侵略を中心とした愛国教育を徹底的に学ばされてきた中国人から見ると、戦後一貫して、現代歴史教育を、結果的に避けてきた現代の日本人をどう思っているのかを、以前から些か気にはなっていた。最近は、中国に出かける時、日中戦争の関連本を一冊は必ず持って行き、旅の徒然に拾い読みをしているのだが、何故の戦争だったのかは、未だに良くは分からないのだ。読み重ねていくうちに、日本は何やら、戦略なき戦いの底なし沼に自ら嵌って行ったように思えてくるのだ。少なくとも山西省への侵略は、侵略の目的なき戦い、一司令官の功名心か、勢い余っての前進であるとの、戦史研究家の意見もある。もしそうだとしたら、何も聞かされることなく、当て無き前進をさせられた兵士が、とても哀れに思えてくるのである。駐屯地の近くで無邪気に遊んでいた小朋友を見ているうちに、遠く故郷のわが子を思い出し、日本の童謡を教えたのだろうか。敗戦後も、帰国することもなく、地元の軍閥である閻錫山の軍隊に組み入れられ、蒋介石軍や共産党の八路軍との戦に狩り出された日本の兵士もいたようである。「怨みに報いるに徳を持ってせよ」と、日本が負けた時に、蒋介石が自国民に向かって演説したと言う。しかし一方では戦争責任者を粛々と処罰したのも事実ではあるのだが。

  大同に到着した翌日朝、まずは、大同の城内から歩くこととした。縮尺不明の極めて見にくい中国の地図を開き、ホテルのある新開南路を北に向かい、大同公園の手前を右に回ると、新建南路に出るが、しばらく歩いていくと、大同のもっとも賑やかな繁華街である【大西街】に入る。商店が櫛比する中、地図上では、右手に【華厳寺】(上華厳寺、下華厳寺)があるはずだが、大規模な建築現場しかない。この建築現場の中に入り、写真を撮ろうとしたら、現場監督風の男に、写真を撮ってはいけないと注意される。ここが【上華厳寺】で、古い建物は取り壊わされ、新たに大きな伽藍が建築中なのである。上華厳寺の一部は残っているので、裏に回れば見られると教えられ、露店や市場が密集し、油の揚げる強烈な匂い、乱雑に投げ捨てられたごみの山、崩壊寸前の建物に、人の生活する何ともいえない匂いが漂う路地裏を通り抜け、裏手の入り口に向かう。生憎と入り口のチケット売り場には誰もいなく、近くにいた警備員に、帰りに支払うと言って、中に入った。境内は、人影も少なく、道中の喧騒が嘘のような、穏やかな落ち着きに満ちていた。その中で、坊さんの衣装のようなものを着た人が、のんびりと庭で朋輩と話に夢中である。少し高くなっている大雄宝殿を覘くと、東向きの盧毘遮那仏が鎮座している。この建物の横からは、現在進行中の大工事現場が良く見える。恐らくこの工事には莫大な費用を要しているのだろうと想像できるのだが、檀家の寄進やお布施があるとも思えず、完成後には、本来の仏教の寺院としての活動を見ることが出来るのだろうか、些か疑問である。帰りにチケット売り場で支払いをしてから、外に出る。
隣にある【下華厳寺】の入り口には、大同市博物館の看板が掛かっている。中に入ると、本堂に当たる薄伽教蔵殿があり、遼時代の仏像などが並んでいる。しかし、確かにお寺の建物ではあるが、そこには、雰囲気からも現在もお寺として活動しているようには思えず、単なる博物館に過ぎないのだ。下華厳寺の前は、明清代の町並みを復元したのか、趣のある商店街になっている。そこを更に東に進むと、前方に、三層の建物が見えてくる。広い道路が交差するど真ん中に建っているのが、嘗ての【鼓楼】である。
  その鼓楼から、大南街を北上し、大東街との交差点を右手に回った辺りに、今回の旅行目的のひとつでもある【九龍壁】がある。これが、北京の故宮、北海公園にある九龍壁とともに、【中国三大九龍壁】のひとつといわれる、大同の九龍壁である。明の太祖朱元璋の第13子、朱桂の王府前に1392年から1396年に掛けて建てられたものである。現存する九龍壁の中で、最も古く、もっとも大きなものである(高さ8m、厚さ2m、長さ45.5m)。本来的には、入り口の前に設けられた陰壁のひとつであり、邪の侵入を防ぐ意味合いがあったのだろう。龍は中国では皇帝のシンボル、九匹の龍とは、九は数字の最後、究極を意味することから、九龍壁はこれ以上のものがない壁と言う意味であろうか。瑠璃タイルで作られた4本爪(元代に入ると、龍の5本の爪は皇帝の専用とされたようだ)の九匹の龍がもつ、それぞれの艶と、その躍動する姿態が、中国人の考える宇宙そのものであり、その変化なのであろう。この前に立つと、僕には何やらロマンがふつふつと沸いてくるような気がするのだ。

  この旅の終わりに、汽車で北京に出たのであるが、三大九龍壁の残り二つを、久しぶりに見たくなり、大同で見た九龍壁と、北京北海公園の天王殿西側にあるもの(高さ5m、厚さ1.2m、長さ27m)、故宮の皇極門前にあるものとを、見比べながら、新たなロマンを感じていた。

  【鼓楼】から更に南に下ったところに【善化寺】があるが、そこに向かう小南街を歩いていて、偶然見つけた花園大飯店の2階のレストランで、昼食を取ることとしたのだが、この店のサービスは,とてもよかった。もちろん料理もうまいのだが、特に、僕のテーブルを受け持った黒服の女性の張さんは、愛嬌のある明るい感じの小姐である。料理の説明も歯切れの良い標準語で、はきはきと説明し、受け答えも極めてテキパキとしており、いわゆるもてなし風の楽しい食事となった。実は、旅の間は、同じ店には2度は行かない、という掟を破り、この日の夕食もこの店に来てしまったのだ。 食後再びぶらぶらと歩きながら、善化寺に向かったが、この付近には、嘗ての城壁の土盛りが残っている。善化寺は唐時代に創建されたお寺であるが、一部は改築中であった。ここに残っているものには、金代のものや、遼代のものがあるのだが、実はこの寺は、明代になって,官吏が儀礼作法を学ぶお寺として有名なのだ。

  【雲崗石窟】には、見学者が少なくなる午後2時過ぎに出かけるよう予定していたので、一度ホテルに戻ることにした。大同市内から、雲崗石窟までは16キロほどの距離である。嘗ては,馬車に乗り、あるいは驢馬で見学したようであるが,日華事変のころに自動車道路が開かれ、バスに乗って、雲崗石窟寺にお参り出来るようになったようである。自動車道路がなかった時代は、見学者は,この石窟寺に泊り込み、宿屋から料理人や雑役夫を連れてきたという話を本で見たこともある。
  午後2時過ぎになって、タクシーで雲崗石窟に向かう。市街地から離れるに従い、人家もまばらとなっていくが、やがて山間に掛かり、気がつくと武州川に沿って走っている。更に進むと、山が次第に開け、西のほうに、中央付近の頂が三角錐のように尖った【武州山】が見えてくる。その下のほうには、おびただしい穴のあいた崖が見え、東西に伸びた約1キロの垂直の崖面に、横穴状に数多くの石窟が掘られている。その中央部の崖の前に、建築物が張り付くように建てられたところを目指して車は進んでいく。
  雲崗石窟群が、造営されたのは、少数民族の鮮卑族の一派である拓跋氏の興した北魏王朝の時代の和平元年(460年)からであり、時の沙門統(大臣)曇曜の指導で始まる。これより遡ること約100年前から、隣の甘粛省敦煌で、あの莫高窟の造営が始まっているのだが、当然に、この雲崗石窟も、その影響を受けているのであろう。

                石窟に 濡れ通るよな 風若葉

  
予想通り、この時間になると観光客も少なく、並ぶことなくチケットを購入し、中に入るや、真っ先に一番東の端に向かった。この辺りは石窟も小さく、仏像などの管理も些か不良である。第三窟の霊厳寺洞は、隋唐時代のもので、この石窟群では、一番大きな石窟であり、断崖の高さは25mある。その中には、高さ10mの、大きな眼の、両頬の豊かな盧毘遮那仏(大日如来)が中央に鎮座している。その左右には、胸に手を当てた【胸侍菩薩】が立っているが、いずれも目が大きい。2003年に敦煌の【莫高窟】を見学したが、とても管理が厳しく、なかなか仏像の近くは寄れず、写真も制限されていたが、ここは比較的自由である。幸いに参観者も少なく、ゆっくりと眺めることが出来た。また、1996年に、洛陽の【龍門石窟】に出かけ、則天武后をモデルにしたと言う露天の盧毘遮那仏(大日如来)を見たが、いずれも日本の東大寺の大仏に大きな影響を与えたのだろう。この石窟のほぼ中央に位置し、入り口に建築物がある石窟が、第5,6窟であり、第5窟は清の順治帝時代のものであり、中央に高さ17mの雲崗石窟最大の仏像があり、周りには小仏像がいくつも彫られており、天国に到る道程ではと、一瞬思わせる。第6窟は,15mの高さがあり、2層の塔柱には仏像、菩薩、羅漢、飛天像が彫られている。天井には天神像が、壁と塔柱には釈迦牟尼と、仏教の伝承した故事が彫られている。完成したころの鮮やかな色彩を想像すると、当時の人達は、摩訶不思議な異国の宗教に、次第に虜になっていったのではと思わざるを得ない。
  雲崗石窟群で最も古い石窟は、【曇曜五窟】と呼ばれる第16から20石窟である。その20窟は露天の彫像であり、両耳を肩まで垂らし、顔は慈悲に満ち満ちており、極めて穏やかにして優美な雰囲気を持った像である。夕方が近づき、石窟前の広場が、本来の静かさを取り戻してきた頃、曇曜五窟の石碑の前にあるベンチに座りながら、しばらく石窟群を眺めていた。遠く異国の宗教が、こうした遺産を積み重ねながら、東アジアの島国まで辿り付く為の、更に多くの先人たちの命を掛けた物語を思い巡らしていたのだ。
  雲崗に石窟が彫られ始めてから30数年経って、北魏は、首都を平城(大同)から黄河のほとりの洛陽へ遷都したが、その後、この町は、僻地にある地方の町へと衰退して行った。
  その昔は、観光客が,美しい壁画の上に、チョークで円を描くと、それを切り取って、包んでくれたと言う話もあり、文革時代は、ここの仏像を一生懸命破壊していたという。それでもまだたくさんの仏像が残されているのである。そして、ここ20年ぐらいの間に、その修復・保存活動がようやく行われるようになってきたようである。しかし、黄塵万丈の砂嵐や寒暖の差の大きさなどによる自然の風化や、石炭の生焚きの火力発電、石炭燃料による家庭の暖房などから、酸性雨による公害も見られる。それでも露天の石仏がたくさん残っている。炭鉱から掘り出された石炭の輸送中、石炭の細かくて黒い粒が、空中を舞い、石窟に付着するという。これも大敵である。こうした環境の中では、石窟群の維持管理はとても難しいのであろう。

  翌日は、タクシーで雁北地区渾源県にある【懸空寺】に出かけた。大同から東南70kmの五岳のひとつ【北岳】(2052m)の麓にある。金龍峡の90度の崖にぶら下がるように懸空寺は建っている。北魏時代に建立され、その後しばしば大修理が行われてきたが、一番奥の五仏殿は、下を見ると、何本かの木の足場で支えているのだが、その足場は何処かで支えられていなければならないのに、浮いているようにしか見えないのだ。英語ではSUSPENDING TEMPLE、すなわち、宙吊りのお寺なのである。遠くから見上げると、絶壁に描かれた絵のようにしか見えず、人が中に入ることが出来るなどとは、とても思えないのだ。入り口の山門から登り始めたが、ここは狭い上に、大勢の団体客とぶつかり、ゆっくりと登らざるを得ない。観音堂は仏教であろうか、三観殿は道教、そして三教殿に至っては、釈迦、老子、孔子を祀っており、まさに中国らしい三教混交のお寺である。1時間弱の行列の末、無事入り口に戻ることが出来たのは幸いである。
  中国の【五岳】は、道教の霊地であるが、そのひとつである【恒山】(北岳2052m)には、ロープウェイで登ることが出来る。これまでに1996年に、【中岳嵩山】(1512m)、1997年に、【東岳泰山】(1545m)に登ったことがある。残るは、湖南省の【南岳衡山】と、陝西省の【西岳華山】の2つであるが、衰えが加速する前に、登らねばと思っている。

  恒山の麓にある【渾源】と言う町は、昔から美人の産地だと言われているが、どうやら、歴代の王朝の後宮にはこの渾源の出身者が多かったようである。日本でも美人の産地は、水が良いと言われているが、中国でもそのようである。更に、国境に近く、異民族との交易や、侵略の歴史ゆえに、民族の坩堝となり、蒙古、トルコ、イラン、そして漢族などの混血化が、美人を生み出したのであろう。恒山から下りてきて、木塔に向かう途中、運転手に美人の町があるようだが、そこまでは遠いのかと聞くと、少し行けばその町であるからと言って、車をそちらに回してくれた。中心地の午後は,人通りも少なく、その街角に車をしばし停めてくれたのだが、美人はなかなか現れなかった。美人は、日差しの強い昼間はあまりうろうろしないものなのだろうと諦め、木塔に向かった。

  木造の塔では、最古、かつ高さが最も高い【木塔】(高さ67.31m)は、大同市から南に70km、応県の平坦な地勢の、農地が広がる中にある。正門付近は、ご多分に漏れず、門前市をなす観光地の商店街となっている。【木塔】と言う普通名詞の名前がついているのは、まことに珍しい。八角九層の塔は、遼代に建てられた時には、一大伽藍の中の釈迦塔であったようだが、その後、この塔だけが残ったのだ。木造で、最古で、かつ最も高い塔であると特定できるところから、この塔を普通名詞のまま“木塔”と呼ばれるようになったようだ。最近は風化が激しいのか、2階までしか登ることが出来なかった。南側には、明朝の皇帝永楽帝の扁額「峻極神功」が第三層に、第四層には,正徳帝の「天下奇観」が掲げられている。

  翌日早朝に、大同駅から、黄土高原を横切り、張家口を通り、北京に向う5時間余の、初夏の汽車の旅を、久しぶりに楽しんだ。


表紙写真;大同倍加造空港


エリア: アジア >>中国 >>ダイドウ(大同)
テーマ: 世界遺産
時期: 2009年05月〜05月
投稿日: 2009年05月26日
写真: 全53枚
満足度: 評価なし
観光: 評価なし
ホテル: 評価なし
グルメ・レストラン: 評価なし
ショッピング: 評価なし
交通: 評価なし
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彷徨人さん
  • 誕生日:01月17日
  • 登録:2008年09月13日

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