【湖南省】 桃源郷・張家界 * 世界自然遺産・武陵源に遊ぶ:彷徨人さんの旅行ブログ
わが嘆き われ知るときぞ 夏来たる
もう何年前であろうか。湖南省に、毛沢東が生まれた韶山、師範学校時代の長沙を訪れたことがある。その後、わが鑑湖巾幗秋瑾女史も、湖南省とは縁があることを知ったのだ。再び湖南省を訪れる機会があれば、今度こそ秋瑾女史の足跡を訪れようと、機会をうかがっていた。そして今回、世界自然遺産の張家界にある武陵源が、湖南省に属しているのを知り、少し大回りではあるが、秋瑾の縁の地である湘潭、常徳を回り、桃源郷を経て、張家界に行く計画を立てたのだ。
【湘潭・常徳】
鑑湖巾幗秋瑾女史、と言っても、多くの日本人は知らないのではないか。かく言う僕も、10余年ほど前に、紹興に魯迅の故居 を訪ねた後、ガイドに、秋瑾故居も見学しませんかと誘われ、何者かは知らないままに、訪れた。入って直ぐの部屋の壁に、ひさし髷を結い、白と紫の矢絣の単衣に、紫袴の和服姿の女性が、抜き放った短剣を握っている写真を見つけた。この写真が、日本留学時代の青山実践女学校の制服を着た秋瑾さんだったのだ。最初は、和服姿と、穏やかな理性的な雰囲気に、日本人だと思い込み、日本婦人が何故此処にとの疑問を思いながら、中国語の解説文を拾い読みしていた。帰国後、秋瑾さんに関連する本を読み、積み上げていくうちに、空海さんと並び、“わが中国の旅”の原点となるべき人となったのである。
我が愛する秋瑾さんは、紹興酒で有名な紹興の挙人の名家に、清朝末期に生まれ、湖南省の富豪に嫁ぎ、二人の子供をもうけ、北京で生活を経て、1904年5月に、夫の反対を押し切って、日本へ留学したのである。当然に当時の良家の子女であるから、秋瑾は悪しき慣習の纏足であった。当時日本では、中国留学生を中心とする清朝打倒への運動が盛んであり、彼女も次第に女性解放と革命への道へと突き進んでいくのである。同郷意識の強い中国では、革命運動もそうした同郷の連携が強く、当時、革命に奔走する留学生の中で、特に、秋瑾さんの実家のある浙江省と、嫁ぎ先のある湖南省出身者も多くおり、当然に、秋瑾も彼らの影響を次第に受けていくのである。革命のための資金を得るために一度中国に戻るのだが(一説では、子供と乳母を連れて留学していたが、革命に邁進するために、子供と乳母を夫の実家に連れ帰ったとの話もあるが)、直ぐに日本に戻ってくるのである。しかし、1905年12月に、日本政府の中国人留学生の取り締まり強化に強く反対して、大勢の留学生と一緒に中国に帰って行った。帰国後は、いよいよ革命運動に本格的に奔走し始めるのである。しかし、1907年6月6日、蜂起は不発に終わり、逮捕され、翌日早朝、故郷紹興の軒亭口で、31歳の若さで斬首の刑に処せられた。それは辛亥革命が起こる4年ほど前のことである。取調べに対して、一切口をきかず、『秋雨秋風愁殺人』(秋雨秋風、人を愁殺す)と、紙に書いただけと言われているが、これは、少し劇的な話ではないだろうか。
これまでに、留学先の東京はさておき、祖父の任地であり、生まれ育った福建省のアモイ湾に浮かぶ租界地であったコロンス島をくまなく歩き回り、結婚後夫の勤務地である北京の胡同での生活を輪タクに乗り偲び、日本より帰国し、女学校教師として赴任した湖州を春節に訪れ、革命に目覚め、次第に奔走していく姿を、彼女の故郷である紹興の街角で、臭豆腐を肴に紹興酒をちびちびとやりながら、酔いに連れ、幾重にも想像し、杭州は西湖畔に立つ、剣を持ち、彼方を見つめる彼女の石像の前に立ち尽くし、すっかり革命にのめり込み、密かに奮戦する姿を、上海の虹口に捜し求めてきたのだ。
そこで、今回の旅では、秋瑾の父の任地であり、少女時代の一時期を過ごし、結婚後7年ほど生活し、そして決起直前の1907年に、11歳の息子と7歳の娘との最後の別れに出かけて行った、湖南省の湘潭市にある嫁ぎ先の王家大院と、父の任地のひとつであり、やはり少女時代を過ごした常徳市を目指したのである。
王家大院は、湘潭市十八総由義巷にあるのだが、今は、周りは比較的賑やかな街であり、尋ねながら近づいたところは、バス通りから少し路地を入ったところに密集する低層の手入れの悪い建物のひとつであった。実は大邸宅であったが、日本軍の空襲で大部分は燃えてしまったと聞いた。それにしても、入り口の軒先には洗濯物が干されており、その入り口の扉は鎖で閉じられている。入り口の壁に、“秋瑾故居”と書いた文字がなければ、朽ちた状況からも、湖南の三大財閥といわれた王家の邸宅とはとても思えない。自転車で走ってきた人に尋ねると、もう何年もこの様な状態だと言う。中国のジャンヌダルクとも言われる秋瑾女史の故居として市が管理している文化財だとはとても見えない。しばらく、この家の前で立って外から眺めていたが、この外人は一体何を見たがっているのだろうと不思議そうな顔つきをして、近所の人は通り過ぎていく。しばらくこの廃墟のような建物の前に立ち、覚悟を決めるために、2人の子供に会いに来た秋瑾さんの気持ちを僕は想像していたのである。ふと見上げると、街路樹の泰山木に真っ白な一花が咲いているのを見つけた。しばし立ちすくむ身に、その芳香が微かに漂ってくるのである。五月闇の中の真っ白な花と仄かな芳香が、この廃墟を思うたび、いつも、とても印象的に思い出されるのである。彼女が処刑されて百年,歴史は遠くになりにけりということなのだろうか。歴史に学ぶということを大切にするこの国の、これもひとつの現実なのであろう。
旅なごり 泰山木の 一花に
その日は、常徳市に宿泊したが、此処では秋瑾の足跡は何も見当たらなかった。翌日は、さらに車で西に向かい、桃源郷を目指した。
【桃源郷】
世外桃源の桃源郷は、陶淵明の著した散文『桃花源記』に書かれた理想郷である。昔漢文の授業で始めてその話を聞き、北京の頤和園の長廊にかかる彩画で、始めて目にすることのできた、桃の花が一面に咲き乱れ、香ばしくも、美しくもある理想の村である。いわゆる隠遁思想から生まれた物語なのだろう。しかし、この地の桃源郷は、理想郷とは程遠く、思い出すも惨めな、俗世界であった。
【武陵源】
張家界市は、湖南省の北西部にあって、市の中央部にある“武陵源”が1992年にユネスコの世界自然遺産に指定されてから脚光を浴びてきた。張家界の由来は前漢の功臣張良は、劉邦が次々と功臣を粛清していくのを見て、この地で仙人になったという話から、その様に言われ出したとのことだ。これも白髪参千丈的な話だろうと思うのだが。王維が七言絶句で詠んだ架空の美しい地域をいう“武陵源”は、古生代に地殻変動と風雨の浸食により、作り出された峻険な奇岩台地である。朝起きると、遠くに見える不思議な曲線を描く稜線を見ていると、天上に住む仙人の気持ちとなり、その勢いか、左右の奇峰に見とれながら、ついつい1日二万歩近くも歩く毎日であった。絶壁に造られた世界最大のエレベーター(百龍天梯)に乗れば、次第に広がるパノラマに目を見張り、モノレールに乗り、奇妙な名前が付けられた奇峰の連なる自然の屏風の十里画廊を眺めて行くうちに,次第にこの地に溶け込んでいくのである。張家界の飛行場から見える峰の中央に大きな空洞が見える。それは天門洞だ。嘗てアメリカのアクロバット飛行隊がこの洞門を飛行機で飛び抜けたそうだ。7キロ余のロープウェイを降り、絶壁を走るバスに乗り継げば、この洞門への石段にたどり着く。その何百段の石段を上り詰めたところに、天空に向かうこの洞門があるだ。これこそまさに自然の妙と言えよう。
張家界は、少数民族の土家族が多く住んでいる地域である。彼らの料理は唐辛子や山椒を多く使い、葛を使った料理が多いのだそうだ。暑くなってくると、中国では特に衛生面での注意が必要となる。この地でも、まずは町のレストランを見に行ったのだが、蝿も多く、なんとなく信頼しがたい雰囲気が漂い、止む得ず、ホテルのレストランで連日食事をすることにしたのだ。
まずは、ここでも僕は、老酒の『古越龍山10年花雕』を注文。突き出しは、漬物風の『泡蘿蔔皮』(大根の皮のしょうゆ漬けに唐辛子をまぶしたもの)、メイン料理は、いつもの『清蒸桂魚』,スープは、『茶樹除オ炖龍骨』(お茶の木の茸と豚骨スープ)、それに副食は、『炖藕』(豚骨のだし汁で煮詰めた執拗に糸を引く蓮根)と、『酸包菜炒葛粉』(豚肉のような触感の葛きり入り野菜炒め)、デザートは、『葛根羹』(甘みの残る中華風葛湯)であった。(第49回)
表紙写真:天門洞(張家界の飛行場から見える峰の中央に、大きな空洞が見えるが、それが天門洞である)
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