2011/03/03 - 2011/03/03
1855位(同エリア4157件中)
杏仁豆腐さん
樋口一葉を求めて、竜泉・吉原界隈を歩いてみました。
出発は日比谷線三ノ輪駅。
自分自身が、浅草生まれ、下谷育ちと言うこともあって、懐かしい下町散策でした。
実際には、自分が子供の頃、こちらの方面に足を踏み入れたことは、ほとんど無いのですが、自分が育った街の面影は十分に残っていました。
まずは、浄閑寺から行きましょう。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
PR
-
浄閑寺です。
1655年(明暦元年)に創建され、吉原遊廓の誕生(1657年)よりも2年早いそうです。
山門は江戸時代に建立されたもので、荒川区教育委員会より荒川区の最古の木造建造物として指定を受けています。 -
荷風碑です。
-
荷風花畳型筆塚です。
-
浄閑寺は安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようにりました。
-
花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立されました。
-
檀徒のほかに、遊女やその子供の名前を記した、寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる、慈十冊の過去帳が現存するそうです。
遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れています。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたそうです。
現在の塔は昭和4年8月に、寛政5年(1793年)以来の供養塚を改修し、形を改め、名も「新吉原総霊塔」としたもので、前の塚は安政2年(1855年)10月2日の大地震に横死した遊女五百余人が運ばれ供養されていました。新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と三百八十余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は二万五千に及ぶそうです。 -
あちこちにお供え物があります。
-
地蔵尊が奉られる真下に、広いコンクリートでできた納骨スペースが造られ、娼妓たちの骨は安置されています。
-
ひまわり地蔵尊です。
老いて孤独死した日雇労働者たちの供養のために建立されたものです。 -
ひまわり地蔵尊の説明です。
-
浄閑寺の説明です。
-
浄閑寺のそばにある、永久寺です。
-
目黄不動尊です。
五色不動の一つです。 -
目黄不動の説明です。
-
国際通りを少し歩くと、千束稲荷神社です。
江戸時代四代将軍家綱公の寛文年間創設で、浅草一円を千束郷と称しその千束郷に上下二社の稲荷社がつくられました。
千束稲荷神社はその下社で北千束郷の氏神で、寛永6年発行の地図に”チヅカイナリ”と称されています。
現状の神社になったのは、明治5年太政官令により竜泉寺町一円の氏神となり現在にいたるそうです。 -
初午祭(二の午の日)には、百灯余りの地口行灯が飾られ、千束稲荷神社は樋口一葉「たけくらべ」の明治26〜7年の祭礼が舞台となり、子供達が遊んだ神社とし有名です。
-
平成20年5月には本神社が一葉の「たけくらべ」由来後と言う事にともない氏子が本殿向かって左手に一葉の胸像を建立しています。
-
碑文には「明日ハ鎮守ナル千束神社ノ大礼ナリ今慶ハ珠ニニギハシク山車ナドヲモ引キ出ルトテ人々サワグ」と記されています。
-
胸像の台座です。
-
-
梅の花が咲いていました。神社に梅は合いますね。
-
一葉記念館に向かう途中にスカイツリーが見えました。今日は、604mです。
-
樋口一葉旧居跡碑です。
-
樋口一葉旧居跡碑の説明です。
-
竜泉町の説明です。
-
一葉記念館です。
樋口一葉は、生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛されました。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去。短い人生でした。 -
一葉記念館前に建つ「樋口一葉記念碑」です。
-
たけくらべ記念碑です。
-
たけくらべ記念碑の説明です。
-
一葉記念館の入口です。
名作「たけくらべ」の舞台となった龍泉寺町(現・竜泉)の人々は、一葉の文学業績を永く後世に遺すべく、有志により「一葉協賛会」を結成しました。昭和24年(1949)には戦災で失った「一葉記念碑」を再建し、続いて昭和26年(1951)には一葉記念公園に「一葉女史たけくらべ記念碑」を建設、さらに昭和35年(1960)には一葉の旧居跡に「樋口一葉旧居跡碑」を建立しました。
協賛会は、残る大事業として記念館建設を目指し、有志会員の積立金をもとに現在の用地を取得し、台東区に寄付をして記念館建設を要請しました。
台東区は、こうした地元住民の熱意に応えて、記念館建設を決定し、昭和36年(1961)5月12日に開館に至ったのです。当時、女流作家の単独資料館としてはわが国で初めてのものでした。
その後40年余りを経て、館の老朽化が進んだことや樋口一葉が新五千円札の肖像に採用されたことを機に、平成18年(2006)11月1日にリニューアルオープンしました。 -
古地図。
-
樋口一葉宅。
-
一葉女史肖像(晩年の頃)。
-
展示室(2階・3階)への階段です。
-
グッズを売っている売店。
-
よし原京町一丁目。
-
飛不動正宝院です。
享禄3年(1530)の創建といわれる修験寺院で、通称「飛不動」と呼ばれています。下谷七福神の不動尊札所です。 -
本堂です。
-
本堂の中です。
-
-
六地蔵。
-
羅漢さま。
-
恵比寿神。
-
お百度。
-
大音寺です。浄土宗の寺院。
-
梅がきれいに咲いていました。
-
子育て地蔵尊です。
-
鷲神社に来ました。
江戸時代鷲大明神社と称されていましたが、明治時代に鷲神社と改称しました。 -
酉の市で有名です。
-
浅草七福神のひとつ寿老神が祀られている他、下町八社巡りの一社です。
-
手水舎です。
-
撫でおかめです。
おでこを撫でれば賢くなり
目を撫でれば先見の明が効き
鼻を撫でれば金運が訪れ
右頬を撫でれば恋愛成就
左頬を撫でれば健康で居られ
口を撫でれば災いを防ぎ
顎を時計回りに撫でれば物事が丸く収まると言われるおかめさんです。 -
-
樋口一葉の石碑が並んでいます。
-
-
-
-
-
-
吉原弁財天に来ました。吉原弁財天は、昭和10年吉原神社に合祀されたため、正確には神社ではありませんが、現在も鎮魂碑等多くの遺構を残しています。
-
吉原弁財天の縁起
江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなったそうです。 -
-
花吉原名残碑です。
-
花吉原名残碑の説明です。
-
新吉原花園池(弁天池)跡の説明です。
-
吉原神社です。
明治5年に新吉原遊郭の四隅に祀られていた四稲荷社と、地主神である玄徳稲荷社を合祀して、吉原神社を創建しました。さらに昭和10年吉原弁財天を合祀しました。 -
新吉原遊郭の鎮守の社であり、遊郭の盛衰とともに歴史を重ね、初午・祭礼の賑わい、ことに花魁の参拝は古書にも記されているそうです。
-
-
お穴様。
-
-
よし原大門。
-
見返り柳です。
-
「見返り柳」は,遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊郭を振り返ってしんみりとしたところからこの名がついたそうです。
-
見返り柳の説明です。
-
吉原大門交差点からのスカイツリー。
-
お昼は土手の伊勢屋で天丼です。創業明治22年です。
-
待たずに入れました。
-
天丼(ロ)です。海老、穴子、しし唐、イカのかき揚げ。ごま油でカラッと揚げられた天麩羅に濃い目のタレがたっぷりとかけられています。
-
なめこ汁。熱々で、なみなみです。
-
ごちそうさまでした。店内は狭く、居心地がいいわけではありませんが、やはり、老舗で食べる天丼はいい味です。歴史的な建物もごちそうです。
-
すりガラスも趣があります。
-
土手の伊勢屋に裏側です。
-
ここからもスカイツリーが見えます。
-
土手の伊勢屋のすぐそばは商店街のアーケード。
-
あしたのジョーで盛り上がっています。
-
土手の伊勢屋のお隣は、創業明治38年の桜なべの中江です。
昼食後は向島めざして歩きました。
http://4travel.jp/traveler/19563147/album/10550725/
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- さすらいの食いしんぼうさん 2011/04/03 23:33:38
- ♪駕籠で行くのは吉原通い〜 サテ、
- 杏仁豆腐さんは浅草生まれの下谷そだちですか。
下町ッ子の血が流れてますね。
ボクはあいにくそんな粋な血筋はないのですが、父が端唄を熱心に習っておりまして、(師匠が芸妓さんだからよけいに熱が入っているのかもしれませんが)ボクも数回同席させられたことがあります。この「竜泉、吉原を巡る」はまさに、端唄「深川」の世界なんですね。「深川」のくだりの、
♪駕籠で行くのは吉原通い、上がる衣紋坂
いそいそと 大門口を眺むれば
深い馴染みが お楽しみ
の歌詞。これよく意味も考えずにボクにとっては想像だけの世界だったのですが、この旅行記を拝見してこれで具体化しましたよ。ありがとうございました。
それに高校時代の国語の自由研究で樋口一葉の「にごりえ」のお力と結城の心中に至る仮定と過程というマセタ論文を書いてた自分にとっては前半部分もとてもなつかしく、感慨深かったです。何回もくりかえしてこの旅行記を拝見しました。
そしていつか機会をつくってこの杏仁豆腐さんと同じルートでこの地を探訪してみようと考えています。
その時は美味しそうば伊勢屋の天丼も見逃しませんよ!ありがとうございました。
さすらいの食いしんぼう
- 杏仁豆腐さん からの返信 2011/04/04 18:26:57
- RE: ♪駕籠で行くのは吉原通い〜 サテ、
- さすらいの食いしんぼうさん、有難うございます。
江戸の面影をたどって、東京を巡ると、いろいろな発見があります。
帰宅してから、自分が訪れた所を調べてみるのも面白いです。
最近は、江戸切絵図を見ながら、現在の地図と対比させながら、散策を楽しんでおります。
さすらいの食いしんぼうさんのお役に立てて、うれしい限りです。
土手の伊勢屋の天丼もぜひ、お楽しみください。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
86