一大学職員の回想録 望郷の島 悲しみの島 涙の島 サハリン紀行
4位
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- 旅行時期 :
-
- 2001/08/15 - 2001/08/20
- (約11年前・6日間)
- エリア :
- ロシア>ユージノサハリンスク
- テーマ :
- 街歩き
- 投稿日 :
- 2011/01/05(約1年前)
- 写真 :
- 66枚
- コメント :
- 0件
- 旅の満足度 :
- 5.0
- 観光 :
- 5.0
- ホテル :
- グルメ :
- ショッピング :
- 交通 :
- 交通手段 :
-
- 現地移動 : 飛行機
- 一人あたりの費用 :
-
- 旅行費総額 : 30万円 - 50万円
- 手配内容 :
- 個別手配

無知で無教養な人間の、独り言なのかもしれません。
サハリン、かつては樺太と呼んでいました。この南樺太には、50万人近くの日本人が、生活していました。第二次大戦末期に、ソ連軍が、日ソ中立条約を破棄して、ソ連軍は、南樺太を占領しました。この後、日本人は北海道に引き上げましたが、朝鮮人は、樺太の地に置き去りにされました。現在サハリンには、5万人以上の朝鮮人がいます。このうちの半数近くは、日本の朝鮮半島の植民地化と、関わっているといわれています。
かつて樺太に住んでいた日本人にとっては、サハリンは、望郷の島です。そして、残された朝鮮人にとっては、悲しみの島、涙の島と、言われています。
ロシアの極東に、Владивосток(ヴラディヴァストーク)という軍港の町があります。明治時代、日本人はこの町をウラジオと呼び、「浦塩
」あるいは、「浦潮」という当て字を使っていました。字からみると、とても風流な感じがします。しかし日本政府は、この町の名前そのものに、恐怖を感じていました。ヴラディヴァストークの意味は、東(ヴァストーク)を制服する。という意味だからです。ロシアは朝鮮を占領し、さらに日本も占領するのではと。
当時のロシア極東には、大勢の朝鮮人が、住んでいました。彼らは飢饉の度に、李朝朝鮮の国禁を犯して、豆万江を超えて、ロシアにやってきたのです。ロシアの地では、自分の土地を持ち、農業で成功して生計をたてていました。
一方、李朝朝鮮下での朝鮮人農民は、両班階級の地主の圧制のもとで、貧しい生活を、余儀なくされていました。旅行家のイサベラ・バードは、豆満江をはさんで、同じ民族であるのに、その違いに驚きました。結論として、李朝朝鮮は、「他国の力によって変えられなければならない」と、朝鮮紀行の中で記しています。
このような背景もあって1910年に、日本と韓国の併合が、国際的に認知されてしまいます。日本は朝鮮総督府を置き、課税地の拡大を求めて、「土地調査令」を出します。これにより多くの朝鮮人は、土地を失いました。また1920年には、「産米増産計画」により、朝鮮半島では、米穀中心の農業に転換させ、朝鮮米の増産させ、米不足の日本に送りました。これにより、さらに農民は困窮しました。そして日本や満州への流出を余儀なくされたのです。
日露戦争で得た、良質の石炭の出る樺太の地にも、土地を失った朝鮮人農民が、日本政府の「募集」に応じてやってきます。そして、樺太での定住化促進のために、朝鮮半島に残した家族をも、呼び寄せることを奨励します。こうして、樺太に徐々に、朝鮮人社会が出来ていきました。
ところで、ロシアの極東にいた朝鮮人は、将来の敵国民である日本人と区別がつかないという理由で、1937年にスターリンの命令で中央アジアに根こそぎ強制移住させられます。
日本は中国との戦争が長引き、泥沼の状態になり、日本人労働力は不足します。樺太の炭鉱での労働力不足を、補うために、朝鮮半島から、朝鮮人の若者が、「徴用」という形で、やってきます。この朝鮮人に対する待遇は、「募集」という形態で、やって来た人たちとは、全く違っていました。
戦争の激化にともない、樺太の石炭を、日本本土に運ぶことが、困難になってきます。それで、樺太の日本人、朝鮮人の炭鉱夫を、九州の炭田に送ります。朝鮮人にとっては、「二重徴用」と言われていますが、この二重徴用が、サハリン最大の悲劇です。奥さん、子どものいた朝鮮人の方にとっては、これが生き別れとなったからです。
戦後、樺太にいた日本人は、稚内に大半は、引き上げました。ところが、日本人とされて、樺太にやってきた朝鮮人は、稚内行きの船には、乗せてもらえなかったのです。1950年には、朝鮮戦争が始まり、サハリンで生きていかざるを、得なくなりました。あと、朝鮮人と結婚していた日本人女性も、サハリンに残留したのです。
台湾でもそうでしたが、現地男性と、日本女性のカップルは、沢山ありました。しかし逆は、殆どありませんでした。当時の日本女性は、正真正銘の大和撫子で、高嶺の花だったのです。(今は、どうですかねえ。お見合いの度に、私は、いつもコテンコテンに。)
今回のサハリン訪問は、まだ残留朝鮮人が、5万人もいるのだろうかと思ってやってきたのです。同じホテルに、かつて樺太に住んでいたという日本人のご婦人が、いらっしゃいました。彼女は、「日本人が、無理やり朝鮮人を連れてきただよ。タコ部屋押し込めて、そりゃ、酷い事してただ」とおっしゃっていました。
白紙を突きつけての徴用、いわゆる強制連行が、あったとかなかったとか言われています。無かったという人の中には、大学教授という、社会的地位の高いと信じられている人もいます。でも実際に無理やり連れてきたという現場を見ている、一市民もいるのです。
色々な公文書を取り出して、大学教授がおっしゃるから、正しいと感じるかもしれません。でも果たしてそうでしょうか。
教室の中で、教授に逆らえる人はいません。機嫌を損なえれば、よその教室に飛ばされて、ネズミのお守りをさせられたりします。飛ばされた方は、何とか認めてもらおうと、かえって尽くしてしまうのです。丁度、彼氏にふられそうになると、お掃除もお洗濯も、お金も全てを捧げてしまうのと、全く同じなんです。
周りは、そんな所辞めろよとか、そんな男と別れろよと言います。精神まで支配され、金縛りの状態になっているので、抜け出せれないのです。そんなときに、辞めるとか、別れるというと、相手は逆上するのです。全ての仕事を取上げられ、机に座っているだけの先輩がいました。無視されているので仕方なく、お伺いを立てずに、いきなり事務に辞表を提出しました。胸ぐらを捕まれ「辞めれるもんなら辞めてみろ」でした。
私は、けじめだけはつけようと思い、ネズミと一緒に過ごしました。そして最後のご奉公に、一年間のネズミとの格闘記録を、発表するために、バスで某大学会館に向かいました。途中で神社が見えたので、「これ以上生き恥を晒したくありません。お守りください」と。
学会場では、前の発表者が、質問攻めで、けちょんけちょんに、やられていました。私もあんな目に会うのだろうかと。しかし、私の発表後には、質問は一切なし。学会終了後、バスの中で見た神社にお礼に行きました。
なんとその神社は靖国神社でした。びっくりです。ここで私の願いを聞いてくださったことに対するお礼と、この尊い犠牲の上に日本の繁栄があることを感謝しました。このあと、境内で売っていたソフトクリームを食べましたが、その美味しかったこと。
靖国神社参拝は、近隣の国から物議を醸し出します。でも私のように夕暮れ時に、一人でくるぶんには、何ら問題は起きません。私の周りにも、アジア各国からの留学生はいましたが、靖国神社参拝など、彼らに申し訳ないので、口には出しませんでしたよ。そのくらいの心得は、ありました。
中学のときでしたが、時代遅れの赤の先生が、「あの飯田線は、日本人だけで、作ったんじゃないぞ。朝鮮人の汗と涙と血も、沢山入っているんだ」と、おっしゃっていましたが、私は昔の事として無関心でした。
かつて私の近所には、半島出身の方が沢山住んでいました。誰に教わるでもなく、子どもたちは、「日本人が占領して、無理やり連れて来て、酷い事をした。」と。それで電車の中で、民族学校の子に会うと、日本人を恨んでいるからと、勝手に思い込み、目を会わせないようにしていました。今では、強制連行が無かったと言う、社会的地位の高い人がいるので、不思議です。
ここ数年前ですが、「イムジン川」という、音楽を聴きました。とても美しいメロディだと感じました。そして自分の魂が揺り動かされるような、感じがしたのです。かつて朝鮮半島で、日本は何をしたのかということに、関心を持ちだしたのです。そして、あの時代遅れの、赤の先生の言葉が、思い出されたのです。
こんなことを言う人は、「あいつは反日左翼だ」と言われます。あの在日の一家を映画化した、「パッチギ」の映画監督も、そう言われています。あの映画に対して、「ふざけるな」と思えば、愛国心の持ち主なんだそうです。
ふざけるなとは、思いませんでした。でも私だって、オリンピックで日の丸が揚がれば、嬉しいですよ。
あのパッチギ2の映画にあった慰安婦狩りですが、慰安婦狩りなど、なかったと言う人もいます。私は、その場にいなかったので、分かりません。でも、アンボン島でのBC級戦犯の手記には、慰安婦狩りが、克明に記されています。この戦犯の方は釈放後、人間の良心など、戦争というベルトコンベアに乗せられると、脇へやられ、もう自分の力では、どうしようもなくなると。こうして、ごく普通の人間が、戦争犯罪を犯すのだと。
また彼は、命がけでやったことに対して、たとえ間違っていると気づいていても、正義への理屈づけをするという弱さを、人間は持っているとも。(原爆投下は、日本人の犠牲を少なくするための、人道的なやり方だったということを、ある原爆開発の科学者は言いましたが、間違っていることに気づいているのを、必死に打ち消しているのかも知れません)
ドイツは日本と違い、ナチス時代の歴史に、真摯に取り組んでいると言う、日本人が少なくありません。ドイツは日本と違い、個人の犯罪追及を行っているのです。強制収容所の末端の看守一人一人までです。私は、これには反対です。無理やり連れてきたり、タコ部屋に押し込めたり、酷い事をしたという人は、そのとき精神が、金縛りの状態にあったからだと思うのです。私もその現場にいたら、同じことをしていたと思うのです。やらなければ非国民扱いされ、家族への配給も滞り、子どもは学校で苛められるとか。
ドイツ連邦政府は、ナチスの犯罪に対して責任を取るという形式を。ナチスの親衛隊(SS)そのものが、犯罪集団と断定しています。しかし、ユダヤ人全滅作戦を知っていたSS隊員は、ごくわずかです。
またSSの中には、武装(Waffen)SSという組織もあり、彼らはドイツ陸軍と肩を寄せ合って、戦っていました。東部戦線、ノルマンディー、アルデンヌでの最後の反撃といった、激戦地に投入されていきました。とくに、ノルマンディーでは、17歳、18歳の少年兵からなる武装SS部隊が、無条件降伏をつきつけた連合軍を相手に、祖国を守るためと信じて、戦場に散っていったのです。
ナチスは全て悪とする、ドイツ連邦政府は、武装SS隊員を、犯罪者の集団という見解を変えていません。軍人でないという見解で、遺族には、遺族年金すら支払われていません。
1933年、ナチスが政権をとると、ナチスを嫌った知識人たちは、アメリカに逃げました。戦後、ドイツに戻ってきた、アメリカ帰りの「民主主義者」たちは、ナチスを支持した同胞を叱りつけ、元親衛隊員を苛め抜きました。ドイツの名将ハインツ・グデーリアン将軍は、戦後、武装親衛隊については、優秀であったと、述べています。またグデーリアン将軍は、シュタウフェンベルク大佐のヒトラー暗殺未遂事件に対しては、痛烈な批判を浴びせています。
また、ナチス時代の反省として、スペインのフランコ軍を助けるために義勇軍として参加した、ドイツ・コンドル軍団の栄誉を剥奪し、またギリシャのクレタ島占領作戦に従事した、ドイツ空軍空挺部隊員たちの、栄誉の剥奪を行っているのです。
ドイツ各地で、ナチス時代の「徴兵忌避者の為の記念式典」を、行っているのです。旧ドイツ軍人は、こうした連邦政府からの仕打ちに憤慨をしています。つまり、自国民の一部の人間に犠牲を、強いているのです。
日本はドイツのように分断されず、朝鮮半島が、イムジン川を挟んで、分断されました。今、学校への助成金を巡って、いい歳をしたオジサンが、反対だと気勢を上げたりしています。びっくりです。子どもの幸せを願わない親など、この世に存在しません。子どもを、この学校に通わせる親の気持ちになってくださいよ。
私は、結婚はしていませんが、親の気持ちは分かるのです。私には、子どものような、たぬ子やクロ助がいます。自分の食べるもの着る物切り詰めても、マタタビや、お魚の缶詰ですよ。
また太平洋や日本海に落ちたからと言って、罵声をあびせるオジサンもいます。少し前、グルジアが、ロシア南部のオセチアに侵攻しました。ロシア人は、グルジアの大統領を非難しましたが、グルジア国民を非難はしませんでした。政府は政府、国民は国民と。
自分の子どもの歳のような、生徒に向かって罵声を。もうこんなことは、今現在を境にしてやめましょうよ。孔子様はおっしゃっています。「間違いと気づいて、遅すぎることはない」と。キリスト様は、「悔い改めれば許される」と。
また孔子様は「自分がして欲しくないことを、他人にしてはいけない」と。
キリスト様は「自分がして欲しいことを、他人にしてやりなさい」と。
大学を去る最終日、「今までお世話になりました。有難うございました」と。
「君のようないい人間がいなくなるのか・・・」
頭を下げ、教室を出る直前に
「せいせいしたやろ」と。
あれは、空耳だったのか、でも教室は静寂に包まれました。
このあと私は、あるものをこしらえて山の中の神社に。クギを持って。
でも、何の効果もなかったです。勿論、半分遊び心ですが。
そういえば、あの日韓基本条約締結に対して、韓国の学生は、猛反発しました。わずかばかりの金で祖国を売り渡す気かと。
韓国の学生は、日本と交渉に当たっていた金 鍾泌さんのわら人形を作り、火をつけるという、火刑の儀式を行いましたが、まだご存命です。
1965年の、日韓基本条約で、韓国側の対日請求権を「無償3億ドル、有償2億ドルおよび民間信用供与」を提供する経済協力方式で合意して、個人賠償を放棄したのです。
当時の韓国は、朝鮮戦争で疲弊し、農民は貧しさを極め、一方、政商と呼ばれる一握りの特権商人が、繁栄を謳歌していました。こうした状況に対して、国民の生活苦を救うという名目で、朴正熙少将が、軍事クーデターを起こします。
彼は、日本の青年将校が起こした2・26事件に、強い影響を受けていました。日本の青年将校が、わずかの人数で帝都の一区画の占領に成功したこと。また真崎や山下奉文といった将官に期待したのですが、真崎、山下は、日和見に周り、結局は失敗したということを。
そこで朴正熙少将は、いきなり政権を奪取し、国民に、自分たちの行動を義挙であることを、訴えたのです。朴政権になってから、日韓関係は、急転換していきます。
日韓基本条約締結にあたり、日本政府は、韓国人への個人補償を提案しましたが、韓国側は、経済協力という形で、政府に一括として渡すように要求しました。疲弊した韓国経済を立て直すために、少しでも日本からお金を多く引き出すためにです。朴大統領は、韓国を発展させた後、国民に説明すると言ったようです。事実、このお金は、韓国経済にとって呼び水となり、朴政権のもとで、漢口の奇跡と呼ばれる発展を遂げていきます。(勿論、朴政権に対しては、賛否両論ありますが)
ただこの日韓基本条約は、韓国国民の総意のもとで、結ばれたのではありません。とくに、サハリン在住の韓国人や、朝鮮半島出身の慰安婦の方には、納得いくものでは、ありません。もっとも朴大統領自身も、国民の了解など得られないことなど、知りすぎるほど、知っていました。でも韓国は、これ以降、農村の生活は改善され、経済は急速に発展していくのです。
私もそうでしたが、日本が何をしたかということに、知らなさすぎのように思えます。日本の負の歴史を知ろうとする考えを、自虐史観という人もいます。「イギリスでは、アヘン戦争を教えていない」と。でも、知らないよりは、知ったほうがいいと思うのです。どんなことでも。
私だって教授の機嫌を、損ね始めていることを知っていたら、大学から身を引いていました。知らなかったから、ある日から、別の教室に飛ばされ、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んで、ネズミと共同生活をするはめに。
私のような無知で無教養な一小市民には、国家間の政治や経済などは、分かりません。ただ日本列島に住む全ての人と、仲良くやっていければいいなあと思うだけです。本当に、それだけです。そのためには、過去と向き合う必要を感じるのです。カザフスタンやトルクメニスタンでは、沢山の民族の人が仲良く暮らしていますが、見ていると、本当に気持ちよく感じるのです。カザフスタンでは、120もの民族がいるのです。
つい最近ですが、教授をぶん殴って、クビになった後輩に会いました。
「よくやったな。俺もやってやればよかったな」と私は言いました。
それを聞くと急に真顔になり
「暴力はいけませんよ。それに先輩が、暴力を振るがらじゃないですよ。逆にやりかえされますよ」でした。
戦争に反対と言っているのに、暴力が正しいはずはないですね。
戦争反対、暴力反対、いじめ反対、差別反対、こうした世の中を作ろうという精神こそが、真の愛国心だと思いますね。
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ソ連系朝鮮人(コリョサラム)と、ロシア女性の新婚カップルです。
コリョサラムの方たちは、ディアスポラの民として、ひっそり生きているわけではありません。
親たちは、農業で成功して、子どもの教育に投資しました。
ハバロフスクでも、サハリンでも、コリョサラムの方は、ビジネスで成功している人が、少なくありません。
ロシア人よりお酒を飲まなくて、勤勉なので、ロシア女性の結婚相手として、望まれるようです。
後輩が、「先輩(私のこと)は、朝鮮人よりも勤勉で(こちらは、?)、お酒を全く飲まないから、ロシア女性に、モテモテではないでしょうか」と。
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宿泊するホテルです。
地震が来たら、いちころです。
旧ソ連圏の建築物は、こんな建物で、大丈夫かなと思います。
あのアルメニア地震では、このような建物は、壊滅しました。この頃、ナゴルノ・カラバフを巡って、アゼルバイジャンとアルメニアは、対立を深めていきます。
このアルメニア地震の際に、アゼルバイジャン側は、対立を和らげようと、血液や医薬品を、貨車でアルメニアに送りました。
戦争をやりたくて仕方ない、キリスト教徒のアルメニアの民族主義者たちは、この貨車を焼き討ちにしました。「イスラム教徒の血が混じるくらいなら、死んだほうがましだ」と言って。
相手を憎まなければ、戦争など出来ません。こうして、アルメニアとアゼルバイジャンの対立は激化して、戦争になっていきます。
先の大戦でも、アメリカ国内では、悪逆非道のドイツ人というイメージを植え付けました。これを真に受けたアメリカ兵たちによる、ドイツ兵の捕虜の殺害が、多発しました。 -
朝鮮人の子どもでしょうか。
南樺太を、日露戦争で勝利した日本は、手にいれます。
203高地の戦いですが、精神主義に傾き過ぎた、乃木大将は、いたずらに犠牲者を出すのみでした。農民出身の兵士に、白襷をさせて、突撃させたり。
遺族の人は、東京の乃木邸に投石をしました。
旅順は開城し、ステッセル将軍と、会いまみれることになりました。このことは、水師営の会見として、文部省唱歌になりました。 -
第9代朝鮮総督の小磯 國昭は、朝鮮独立について、「今更、朝鮮の独立を夢みるのは、九州や北海道が独立を企図すると同じで、馬鹿げた意味のないこと」と言っています。
中国は、4000年の歴史があると、いわれています。もともと中国は、黄河の流域だけでした。それが、中国が支配した地域も、中国になり、中国を支配した側も中国になっていき、中国は大きくなっていきました。
4000年たっても中国にならなかった朝鮮半島が、わずか36年で、日本になるはずがないように思いますが。 -
東部ドイツでは、ソ連兵による、「フラウ コム(女来い)」
サハリンでは、「ムスメ ダヴァイ(娘 来い)」がありました。
人間は、死ということを精神が受け入れると、肉体は、それに逆らって、自分の子孫を残そうとするようです。それゆえ、占領地では、婦女子への暴行も起きます。
シベリア出兵時に、一部の日本兵が、私娼や現地女性との接触から病気に罹患し、それがかなりの日本兵に感染し、兵力として使い物にならなくなりました。
この時の反省から、軍は現地女性との接触を、厳しく禁じ、慰安所を設置して、軍医が病気の検査をします。この慰安婦問題は、私もわかりません。
ただゲゲゲの鬼太郎をお書きになった水木しげるさんは、実際その現場を見て、「慰安婦の方たちは、毎日が地獄の日々だった。だから補償すべきだと思う」と述べています。
軍隊という共同生活の中では、仲間にも感染させるので、戦争をするには、慰安所は、必要悪とも考えられます。1936年に始まった、スペイン市民戦争でもすでに、義勇軍のドイツ・コンドル軍団専用の、スペイン人慰安婦を集めた慰安所があり、軍医が検査をして管理していました。私娼と接触して、病気になったドイツの義勇兵は、すぐに本国送還でした。
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上陸したソ連兵です。頭を刈り上げた囚人兵が、酷い事をしたようです。
東部ドイツでは、ソ連兵が、ドイツの婦女子に対する暴行が頻発しました。大勢のドイツ女性は、病気に罹患しました。
怒れるポーランド人やチェコ人たちは、逃げていこうとするドイツ人に復讐を開始しました。しかしドイツ女性は、かなりの者が、ソ連兵から病気をうつされていると信じていたため、この種の暴行はありませんでした。
意外かもしれませんが、先の大戦では、ドイツ軍は、占領下の地では、末端の兵士まで規律が行き届いており、婦女子への暴行は、皆無に近かったのです。
慰安所は、病気の感染力を考えると、戦争には必要悪です。でも戦争そのものが無くなれば、こんなものは、必要ないです。
今になって慰安婦の方を、ただの商売女という評論家の人もいます。酷すぎるように思えますが。慰安婦には、日本人も沢山いました。大半が、貧しい小作農家の娘です。台湾、朝鮮、樺太と今より国が広いのに。それだけ戦前は、格差社会でした。
戦後、GHQにより、植民地は取上げられますが、農地改革がなされ、日本は発展していきます。ですから、私は格差社会を肯定する考えには、賛同できません。
2・26事件で、青年将校が訴えた、農地改革、貴族制度の廃止を行えたのは、アメリカの占領軍でした。
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ここにも、コリョサラムの方が。
中央アジアのコリョサラムの方は、自らの意思で、豆満江を渡り、ロシアにやってきました。
サハリンのコリョサラムの方は、日本の朝鮮統治により、農地を失ったり、困窮のために、あるいは、徴用としてやって来た方たちです。彼らの故郷は、朝鮮半島(大半は、南部朝鮮です)なのです。
同じコリョサラムでも、中央アジアの方と、サハリンの方では、違うのです。 -
オホーツクに面した一寒村です.。
もし戦争をしなかったら、この地は日本領のままで、道の駅やペンションが出来たでしょうか。
答えはニェットです。
日本はまだ、小作と地主に分かれていたでしょう。
日本も戦争に負け、他国の力、つまりアメリカによって、農地改革がなされ、変わりました。自国の力では、無理でしょう。他の発展途上国をみればわかるように。
2・26事件の際に、磯部浅一の行動に共感を持った、当時、満州にいた日本人将校たちも、この農地改革は、GHQの数少ない善行の一つと感じたようです。
この日本の繁栄は、先の大戦での、お亡くなりになった犠牲の上に成り立っているのを、忘れてはいけませんが、同時に戦争の恐ろしさも、忘れてはいけませんが。
ところで、後に大統領となる朴正熙は、上官の日本人将校から、可愛がられていました。この日本人将校は、2・26事件が発生したときに、「磯部は、帝国軍人の鑑だ」と言いました。朴正熙は、この事件に強い影響を受けたといわれています。
朴少将ともに、1961年5・16クーデターに参加した者たちは、無名の将校たちでした。クーデター成功後、米の政府の買い上げ価格の引き上げを、真っ先に行い、農村の生活の改善を企図しました。日本と違い、韓国は、朴政権によって、みずからを変えていったのです。(朴政権に対しては、賛否両論ありますが)
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モスクワ前面まで来た、ドイツ軍を撃退させたT34戦車です。
ドイツの名将ハインツ・グデーリアン将軍曰く「それは最高の戦車であった」
戦争は技術革新を、早めはします。
ポーランド戦では、ドイツ軍は、小さい2号戦車でワルシャワへ向かいました。
このT34の出現で、良く似た形のパンター(豹)戦車がつくられました。
さらに、ティーガー(虎)、ケーニヒス・ティーガー(虎の王者)戦車へと、発展していきます。 -
かつての共産党幹部の保養所です。
この地域は、一般住民の立ち入りは、ニェットです。
ソ連は、崩壊するべきして、崩壊したかもしれません。
ゴルバチョフさんのヤルタのダーチャ(別荘)に比べると、おしとやかですが。
ゴルバチョフさんは、国民が飢えているのに、ヤルタに従業員300人を抱えるダーチャを、建設しました。ゴルバチョフさんは、あまり人気ないです。 -
対日戦の犠牲者です。
ソ連は、日本から、サハリン、千島列島を奪いました。
ソ連は、対日、対独の戦勝国です。
でも遺族の方にとっては、戦争に勝ちも負けもないですね。
その戦死した人は、この世にただ一人だけで、もう戻って来ないんですから。 -
サハリンの大地を、あとに。
ここでは、さまざまな、ドラマがあったのです。
戦争によって、自分の運命が変えられ、それを受け入れざるを得なかった人たちがいます。
いつの時代でも戦争は、ごく一握りの人間によって始められます。
犠牲になる人たちは、歴史の片隅に、消えてなくなってしまうのです。
世界を見れば、今でも戦争が続いています。
しかも、最近の戦争は、ごく一部の国の、ごく一部の指導者が、戦争を起こしているように思えます。
先の大戦では、少なくとも、ドイツも日本もソ連も、祖国を守るための戦いでした。しかしアフガニスタンやイラクでの戦争は、そのようには見えないのです。
戦史研究家のリデル・ハート卿曰く「平和を欲するなら、戦争を理解せよ」と。
まさに、そのとおりです。戦争を、そして戦争で犠牲になった人たちを、忘れてはいけませんね。
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