命を捧げるほどの愛―マキシミリアノ・コルベ神父―***ポーランド(3)最終章
2位
人気旅行記ランキングその他の都市99件中
- 旅の満足度 :
- 5.0
- 観光 :
- ホテル :
- グルメ :
- ショッピング :
- 交通 :
- 同行者 :
- カップル・夫婦
- 手配内容 :
- 個別手配

大好き、と申し上げたらあまりに不遜でしょうか、
心から尊敬申し上げる、と言ってもまだ届かないかも知れません。
お会いしたこともないのに、お写真からも伝わる、真摯で清らかで崇高な眼差しの中に全ての人を大きく包んでくださるような優しさと温かさ。
やはり大好きと表現したくなってしまう、そしてそんな表現もきっと静かに微笑んでお許しくださるであろう敬愛なるコルベ神父さま。
1919年にコルチャック先生が卒業式で子供たちに贈られた別れの言葉。
「私たちは君たちに、人間の愛というものを与えることはできない。人間の愛は、寛大さなくしてはありえない。許すということは容易なことではない。君たちは、自分自身で、寛大であるよう努めなければならない。しかし、私たちは君たちに‘一つ’だけ与えることが出来る。より良き人生への、まことの、正しい人生への―今日ではありえないが―“憧れ”を贈ることが出来る。恐らく、その“憧れ”が君たちを、神へ、祖国へ、愛へと導くであろう。」
コルチャック先生のこの言葉をお借りして、まさにその“憧れ”と言ってもよいでしょうか。
アウシュヴィッツの悲惨な歴史の中に輝く一条の希望の光、生涯を愛に捧げ尽くされたコルベ神父さまの足跡の一部だけでも辿ることが今回の旅行の最も大きな目的でした。
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(1982年10月10日列聖)
聖人と聞きますと遠い時代の神格化された聖人を思い浮かべ、知識としては知っても物語の中の人物のように感じますが、コルベ神父さまは、同じ20世紀に生き、一人の人間として弱さも持ち悩みつつもなお成長されて、揺るぎない愛を自らの生き方で示されました。
「憎しみからは何も生まれません。愛だけが創造する力を持つのです。」
コルベ神父さまが生前語っていらしたというこの言葉に深く心を打たれます。
コルベ神父さまが設立されたニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)を訪ねて。
-
ワルシャワから列車で1時間程でニエポカラノフ修道院のあるテレシンの駅に到着。
1927年にニエポカラノフ修道院を建設されたコルベ神父さまは一時(36歳から6年間)宣教の為に長崎に滞在されていました。
日本で宣教することを考えられたのは、ある日列車の中で数人の日本人留学生と出逢ったことがきっかけとも言われています。
コルベ神父さまはいつも「奇跡の(不思議の)おメダイ」をポケットに沢山入れて持ち歩き、人々に差し上げていらっしゃいました。
その時の日本人学生にも同様に話しかけ、奇跡のおメダイを贈ったところ、その学生たちが、聖母マリアのことを知らず、キリストのことも伝説上の人物だと思っていたことに衝撃を受け、東洋での宣教を思い立たれたとのこと。
コルベ神父さまがその時学生たちと出逢ったのも、もしかしてこの路線の列車内だったのでしょうか。 -
既にほぼ満席となっていた聖アンナ教会の一番後ろの壁際の席に、頭を垂れて祈っていらっしゃる一人の修道女の隣がちょうど二人分空いていましたので、そこにそっと座らせて頂きました。
ミサの最中は写真は撮りませんでしたので、これらの写真はミサが終わった後、人々も帰り、照明が消され始めた時に撮った写真なのですが、全ての照明が灯されていた時の御聖堂の美しさを何と表現したら良いでしょう。 -
ミサが始まって少し経った頃、胸の前に何かが伸ばされた気配を感じ、見ますと、奇跡のおメダイと十字架が一杯乗った手のひらが。
隣の席の修道女が、にこにこと、身振りで「おメダイをどうぞ」と差し出していらっしゃるのです。
もうこの時の驚きといったら!!
なぜって、コルベ神父さまのニエポカラエノフ修道院に行こうとしているまさにその前日に、嘗てコルベ神父さまがなさっていたように、その奇跡のおメダイが、手のひらに乗せられて目の前にあるのです。
驚きと感激で、でもお返し出来るものは何もなく、ただシスターのその手を両手で包み感謝の気持ちを表すことしか出来ませんでした。
夫と一つずつおメダイを頂きますと、優しい笑顔で「もっとどうぞ」という身振りをなさいます。
それで、もう一つずつ、夫は今度は十字架を頂きました。
ポーランド語の祈りの言葉は解らないけれど、御聖堂に響き渡る美しい聖歌とパイプオルガンと人々の静かな祈りの声に包まれながら、ミサの間中涙が溢れてなりませんでした。
それは喜びや感動というだけのものではない、何か不思議に知らず知らずのうちに溢れる涙でした。
頂いたおメダイを両手で大切に包み、時々上を見上げますと、涙にぼやけた天井画が天国かと思われるほど美しく、まるで空を舞って浮遊しているような、そんな幸せな気持ちで満たされ、夢心地のうちにミサは過ぎて行きました。 -
ミサの途中、ふと気付くと、隣にいらしたシスターが立ち上がってドアの外へ出て行こうとされるところでした。
空いた隣の席を見ますと、今の出来事はまるで一時の幻か夢だったかのよう。
あの時のシスターは巡礼の途中の方だったでしょうか。
この出来事は人が聞いたら‘単なる偶然だ’と一笑に付されるとは思いますが、私にはあの修道女はコルベ神父さまがシスターに姿を変えて、愚かに迷える私たち二人の前に現れてくださったのだという気がしてならないのです。
遠い日にコルベ神父さまが出逢われた日本人学生にされたように。
ミサが終わった後、感動冷めやらず、私たちは「これは奇跡だよね。それとも幻?」と何度も繰り返して話し合い、時々、このおメダイが、マッチ売りの少女のマッチの灯りに照らされた光景のように、ある時ふっと消えてなくなっているのではないかしらという気もして、取り出しては確かめてみたりしました。 -
これがその時頂いた不思議のおメダイ(メダル)と聖ベネディクトの十字架です。
☆不思議の(奇跡の)メダイ☆
1830年11月27日、聖母マリアがフランスの修道女カタリナ・ラブレに現れて示されたモデルに従って作られたメダイユ。
表には出現された年の1830年という文字とその時のお姿。周囲に「原罪無く宿られた聖マリア、あなたに依り頼む私たちのために祈ってください」という祈りがポーランド語で記され、裏には、十字架にマリアのMという頭文字が組み合わされたもの、横向きのIは“immaculata”無原罪の頭文字。そしてイエスとマリアの御心を表す二つのハート、すなわち茨の冠で囲まれたイエスの御心と、御子を犠牲とされて苦しみの剣で刺し貫かれたマリアの御心を表すハート。使徒の上に立てられた教会のシンボルである12の星。
************************
コルベ神父さまはこの不思議のメダイの祈りの後に、
「また、御身に依り頼まざる人々、特に教会に敵対せし人々、かつ我等が御身に依り頼む全ての人々の為に祈り給え」
という祈りを付け加えて祈られたそうです。
どんなに過酷な状況にあっても、人を憎むことなく、無私の心でただ愛の為に力を注がれたコルベ神父さま。
コルベ神父さまの生き方そのものであったこの言葉にも心を打たれます。 -
長々と個人的な出来事を語ってしまい申し訳ありません。
ニエポカラノフに戻ります。
ニエポカラノフ修道院のあるテレシンの駅に着きますと、近くの席に座っていらした女性が、
「ここですよ」という風に列車の窓の外を指して教えてくださいました。
どうして私たちの降りようとしている駅が解ったのかしらと考えて、そういえば列車の中でポケットから奇跡のおメダイを何度も取り出してはにこにこと眺めていたことに気づきました。
きっとその様子をご覧になったのですね。 -
こちらに向かって歩き出そうとされているコルベ神父さまは、何と奇跡のおメダイをその手のひらに差し出していらっしゃるのです。
この像の前に立った時の驚きと感動!!
「コルベ神父さま、ありがとうございます。もう昨日頂きましたよ」
と、心でお話ししました。 -
大聖堂のドアには各国のマリア像、その中に一枚そこだけ新しいプレートが。
近づいて見ますと、Je suis l'Immaculee Conception(無原罪の御宿り)と書かれたルルドの聖母マリア像でした。
その隣のプレートはポルトガル・ファティマのマリア像。
日本での宣教時、コルベ神父さまは長崎の本河内にフランスのルルドに似た洞窟を見つけられ、コルベ神父さまがポーランドに帰国後本河内ルルドの泉が出来ました。
現在、本河内ルルドは奇跡の泉としてバチカンも認定した公式巡礼地となっているそうで、「長崎の鐘」の著者でもある被爆した医師・永井隆博士は、その著「如己堂随筆」の中で、原爆で右側頭動脈に受けた傷が壊疽になった時、長崎のルルドの水によって一命を取り止めたことを記しています。
その奇跡を「確信をもって、かつ科学者の良心をもって、公に私は宣言する」と。 -
この写真はミサが終わった後のものなのですが、ミサの時はぎっしりの人々で、心を温かく包んでくれるような美しいミサでした。
とても大きな御聖堂ではありますが、決して豪華絢爛ではないのがニエポカラノフ修道院らしい感じがします。 -
こちらは、1927年この地に最初に建てられた時の修道院です。
目に見える富や権力への欲望から自己を精神的に解放し自我を捨てることで自己を確立するという、師父聖フランシスコの清貧の精神を貫いたコルベ神父さま。
修道院も、当時一般的であった煉瓦造りにはせず、経費の節約と清貧に生きる為に木造のバラックにされたとのこと。
コルベ神父さまと修道士たちが泥まみれになりながら資材を運び、コルベ神父さまはサナトリウムから退院したばかりの病身でありながらも懸命に労働され、継ぎのあたったぼろぼろの修道服で働く人々の様子に心を動かされた土地の人々が建設中に住む部屋を提供した時も、コルベ神父さまはベッドを修道士の一人に譲り、ご自分は床の藁ぶとんで眠られたのだそうです。 -
この教会の中にはコルベ神父さまが1927年〜1930年までお住まいになったとても質素な机とベッドだけのお部屋があり、見学させてくださいました。
そしてこの教会でも、その時いらした神父さまが不思議のおメダイとロザリオと、コルベ神父さまの御絵をくださいました。
このおメダイもロザリオも、そして聖アンナ教会でシスターから頂いたおメダイも、金銀で出来ているのではない、プラスティックのような質素なものですが、だからこそ我が家の宝物になっています。 -
ところで、ニエポカラノフ修道院には信者でなくとも宿泊出来る施設があるとのことで、宿泊させて頂こうかと日本を発つ前に考えたのですが、寒そうな気もして、いろいろ考えた末やめたのでした。
コルベ神父さまのもとを訪ねながら、そんなことで宿泊するのをやめた私は何と愚かで浅はかで情けない俗人なのでしょう。
-
修道院の横には写真のコルベ神父博物館があり、その前で佇んでいますと、通り掛かった家族連れの女性が、
「こちらがコルベ神父が住んでいた建物です」とこの博物館向かいにある建物を示してくださいました。
「あぁ、ここが……」と、その建物を見上げてまた暫し佇んでいますと、先程の女性が引き返していらして、
「神父さまを紹介します」と、博物館の中へ呼びに行かれました。
-
すると、その神父さまはどこかに電話をされた後、鍵を持って出ていらして、コルベ神父さまが住んでいらしたという建物の二階の一室に案内して下さいました。
ここは日本から帰国されてからお住まいになったお部屋で、後で知ったのですが、院外の一般の人は見学出来ない場所とのことです。 -
そして鍵を開けてくださり、入ったコルベ神父さまの院長室は、聖なる清貧に生きたコルベ神父さまのお人柄を表すようなとても小さく慎ましい部屋でした。
700人以上の修道士たちを擁する大修道院の院長でありながら背もたれも無い簡素な椅子、
机の向こうにはコルベ神父さまの質素なベッド。 -
当時ポーランドでは神父と修道士の間には厳然たる階級上の差別があったそうですが、コルベ神父さまは階級上の差別をすることは決してなく、修道院の創立者であり指導者であるにも関わらず修道士たちと靴も衣類も共用し、同じように懸命に働き、肺結核の持病がありながらも毛布も持たず、夜は外套を掛けて眠られたそうです。
ただ、病人たちに対してだけは特別に優遇し、「最愛の病者たち」には限りない優しさを持って毎日修道院の病室を訪問し、
「病人は祈りによって多くのものを与えてくれるので最良の働き手なのです」と、病人が無力感から立ち直る手助けをなさったとのこと。
ニエポカラノフの全ての基準は愛であり、修道士たちはそうしたコルベ神父さまを心から慕い、清貧生活の中でも強く結ばれていましたが、地位の上に安住し権威を示したい先輩神父たちからはそんなコルベ神父さまは快く思われない存在だったのだそう。
そしておそらくはコルベ神父さまのあまりに一途な純粋さゆえに。 -
また、新しい文化技術を避け修道院という閉ざされた世界でひたすら神学の研究と祈りをするべきと考える司教たちは、コルベ神父たちが進めていた印刷物や放送といったマス・メディアによる布教に対し、世俗的であると批判的だったとのこと。
ワルシャワの大司教であったアレクサンデル・カコフスキ枢機卿の
「このような輪転印刷機を使うあなたがたの姿を見たら、アッシシの聖フランシスコは何とおっしゃるでしょうか」との批判の言葉に、コルベ神父はきっぱりとこうお答えになったのだそう。
「聖フランシスコが生きておられたら、きっと腕まくりして、私たちと一緒に輪転印刷機の傍で働かれると思います」
そのように古い司教たちからは反感を買い、時にいじめられ冷やかに見られていましたが、他者の苦しみを自分のものとして受け止める純粋で真っ直ぐな熱情と行動の人・コルベ神父の元には、その志に共鳴した多くの若者が集まり、ニエポカラノフは最盛期には神父、修道士、神学生、志願者たちを合わせて772人を擁し、キリスト教会の歴史に特筆される、当時世界で一番大きな修道院となったのでした。
決して名誉の為ではなく、無私無欲に生き、純粋で澄みきった精神のコルベ神父の魅力は多くの人々の心に響き、当初コルベ神父に敵意を示していたある長上も、遂には最も熱烈な協力者となっていったそうです。
(この写真はニエポカラノフで頂いた聖人カレンダー2011年1月のページです。
上はどなたかをニエポカラノフに案内されているのでしょうか。
右下のお写真は、1930年2月、日本に向けて出発する時に撮影されたもの) -
1983年6月18日、コルベ神父さまを特別に敬愛しておられた、同じポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がこの部屋を訪ねられ、コルベ神父さまの机の前で祈りを捧げられた時の写真。
1941年、コルベ神父さまはこの部屋でナチスに逮捕されたのでした。 -
この博物館には先程拝見したコルベ神父さまのお部屋のレプリカが作られ展示されていました。
改めて、貴重な本物のお部屋を見学させて頂いたのだと、先程の女性との偶然の出逢いに感謝です。
今回の旅行全体を通じ、本当にいろいろな方々に話しかけられ助けて頂いたことでした。 -
少年時代のコルべ神父(前列向かって左端)
貧しくとも敬虔な両親の元で育ったライモンド(コルベ神父の本名)は、やんちゃで活発な少年で、理数系が得意な科学少年であったそう。
13歳の時、1907年コンベンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学。
16歳の時、コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会、修道名をマキシミリアノと名のる。 -
神学生時代のコルベ神父
18歳の時、成績優秀なマキシミリアノ・コルベは留学を命じられ、ローマのグレゴリアン大学哲学科に推薦入学。
哲学、神学、数学、化学、物理学、天文学を学び、惑星間の旅行が物理的、生物学的に可能であることを説明する論文を書いたほど科学的才能に秀で、賞賛付きの最高点で哲学博士の学位を獲得、卒業後更に、セラフィクム国際神学大学に進学。
この学生時代、23歳の時、コルベ神学生が発案者となり6人の仲間を募って「汚れなき聖母の騎士会」を設立。
「汚れなき聖母の騎士会」の最初の公開集会で、若きコルベ神学生は多くの人々の前でこう講演しました。
「無原罪の聖母の謙虚さは私を我欲から救い、その従順さは私をエゴイズムから救い、その清貧は私を所有欲から救ってくださる。それが私にも他の人にも起きるように私は生き戦います。私たちは武器を取りますが、死を与える武器ではなく生かすための武器を、暴力の武器ではなく献身の武器を、憎しみの武器ではなく愛の武器を取るのです。そしてこれが私たちの弾丸です!」
と、コルベ神父が弾丸と呼んだ‘奇跡のおメダイ’を頭上に掲げて。
何と清らかで力強い宣言なのでしょう! -
コルベ神父は、数多くの日記のようなメモ、黙想ノートや975通もの手紙を残しています。
とりわけ、自分への戒めや内省、日々の決心などを書かれた学生時代の黙想ノートを読みますと、たゆまぬ努力と純粋で真摯な生き方の中にも、いえそれゆえ悩み苦しむことも多かったコルベ神父の人間的な姿が、神格化された遠い昔の聖人ではなく、崇高な意志と共に弱さも持たれた生身の人間として一層胸に響き感銘を受けます。
母への手紙は62通程残っており、写真の手紙は、グレゴリアン大学在学中20歳の時、母に宛てた、ローマからの1915年1月1日付の一通です。
「愛するお母さま、今日、お母さまからのお手紙を受け取りました。今、改めて、幼きイエズスの豊かな祝福を、お母さまのうえに祈ります。―中略― 誓願の時、‘マリア’の名を付け加えました。いま僕はマキシミりアン・マリア・コルベです。」
と、聖母マリアへの崇敬を示す為、自分の名に‘マリア’を入れたことを伝えています。 -
ローマのセラフィクム国際神学大学神学生時代のコルベ神父(前から2列目、向かって右から3人目)
国際神学大学の生徒名簿には校長自身のペンにより次のように記されているそうです。
「マキシミリアノ・コルベ、1912年10月入学。1918年司祭叙階。グレゴリアン大学で哲学博士号、1919年国際神学大学で神学博士号を受ける。同9月卒業。まこと聖なる青年であった」
-
出会う人々に渡すための奇跡のおメダイを入れた袋。
これを持ち歩いていらしたのですね。
1919年(25歳)卒業後ローマから祖国ポーランドに帰国。コンベンツァル聖フランシスコ修道会のクラクフ神学校の哲学科教授として教会史と哲学を教える。
その傍ら、司祭としての仕事と布教活動の激務で、医師たちに3ヵ月以上は持つまいと診断される程学生時代からの肺結核が悪化、度々療養所生活を送らざるを得なくなる。
1922年(28歳)初めて「無原罪の聖母の騎士」を執筆出版。
1927年(33歳)テレシンの街にニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)を創立。
1930年(36歳)2月26日ゼノ修道士ら4人の修道士を伴ってポーランドを出発、4月24日長崎に到着。大浦天主堂敷地内にある大神学校(旧羅典神学校)でラテン語により哲学を教える傍ら、布教に尽くされる。
翌年長崎本河内に聖母の騎士修道院を建設。
長崎時代もコルベ神父一行は乏しい資金で極貧を極めた生活だったそうですが、長崎でコルベ神父と働いたセルギウス・ペシェク修道士の著書を読みますと、貧しくとも溢れるばかりの愛に満ちた布教生活の様子が伝わって来て心温まります。
「冬が来ても部屋にはストーブも無く、ただ支えは若さと布教の使命感でした。それにしても、コルベ神父様は全てにおいてすばらしい規範を示されました。私たちへの優しい思いやりの態度、神父様は決して怒りませんでした」(セルギウス著「越えて来た道」より)
医師によれば、コルベ神父の結核は肺の4分の3が侵される程の重度であるのに、驚く程の粗食と短い睡眠であんなにも労働されたのは医学上の不思議とのこと。
不眠と過労とである日力尽きて路上に倒れ動けずにいたコルベ神父を、幸い修士の一人がその場を通りかかって助け起こしたこともあったのだそう。
それでも神父はどんな試練にもいつもひるむことなく、試練に打ちひしがれる代わりに労働に拍車をかけられました。
当時、コルベ神父の診察に行った深堀安郎医師は、
「コルべ神父は板で出来た手製のベッドで高熱を出している時も上下に毛布それぞれ一枚だけで外套を掛けて寝ておられました。コルベ神父は秀才であったけれど冷たい感じは全く無く、自制力が極めて強い人であった」と語っています。
-
若き日、学生時代のコルベ神父は議論好きで、哲学的な理論の展開によって無神論者を論破し問い詰め納得させようとしたそうです。
ある時は街路のただなかで、ある時は公開討論をいどんで。
けれども、日本でヨーロッパのキリスト教文化と異なる文化に初めて出会い、異文化・他宗教を謙虚に受け止めて対話され、また、愛に結ばれた布教生活ではあっても中にはその極貧の修道生活に耐えきれず祖国へ去って行った修道士も出るという日本での挫折経験の中で、人々の弱さも全てを受け入れるという精神的な成長をされました。
6年後、ニエポカラノフ修道院院長としての再びの任務を要請され、日本への愛を深めていたコルベ神父は想いを残しつつもポーランドへ帰国。 -
ニエポカラノフ修道院長時代、若い神学生とチェスをするコルベ神父。
チェスはコルベ神父の唯一の趣味だったそう。
写真のコルベ神父は生真面目な表情のものが多いのですが、普段の神父は尊大なところは全く無く、共に懸命に働き、いつも穏やかで優しく、真面目であるけれども陽気で、涙を出すほど笑っては、仲間の修道士が明るく陽気でいられるよう願っておられたと修道士たちは語っています。
コルベ神父は修道士たちを「私の子供たち」と呼び、修道士たちはコルベ神父を父のように慕い、修道院での仕事は大変な労働であったけれども、修士たちの誰もがコルベ神父の傍にいられることを喜び、神父と共にあった幸せを心に刻み、この頃から既に神父を聖人と見ていたとのこと。 -
第二次世界大戦勃発、逮捕以降のコルベ神父の写真は無いのですが、ナチス・ドイツ側の人々や、アウシュヴィッツから九死に一生を得て生還した人々からの多くの証言が残っており、絵で展示されていました。
1941年、何人かの修道士たちと共にナチスに連行されるコルベ神父。
その日、コルベ神父は皆に向かって静かに十字を切り、いつものように優しい笑顔を見せて軍用車に押し込まれたそうです。
連行されながらも、コルベ神父は同僚たちに、
「子供たちよ、今私たちに求められているのはほんの少しの勇気です。私たちは使命を果たしに出かけるのですよ。旅費が向こう持ちとは何という幸運でしょう」
とユーモアで励まされたとのこと。
「敵」に愛を持たねばならない。苦しみは神の摂理であり、それを耐えることによって人間としての証が成り立つと。 -
ワルシャワのパビアック収容所でナチスの将校に、「貴様はこんなものをまだ信じているのか!」と腰に付けていたロザリオを引きちぎられ激しく殴打され続けたコルベ神父。
その後暫くしてアウシュヴィッツの収容所に移されました。
ナチスはユダヤ人だけでなく、将来のソ連攻撃に備えて、ポーランドの知識人、政治家、教会関係者の活動も壊滅する計画だったと言われています。
コルベ神父もユダヤ人ではありませんが、逮捕の理由の一つとして、ナチスとキリスト教が相反するものであり、コルベ神父がポーランドの人々から篤い信頼を受け大きな影響力があったことが考えられるとのこと。
ナチスは初めは、このコルベ神父の力をナチスの占領政策のために活用したいと考え、宣伝方面で最高のポストを与えるからとナチスへの協力を何度も説得したのだそう。
勿論コルベ神父はナチスへの協力を断り、どんな人でも修道院に受け入れ救出することを修道士たちに命じました。
闘うべきは誰もの心の中にあるのであって、ドイツに敵対するのではなく、ただ戦争に反対するのだと、コルベ神父は修道院内にドイツ兵のための病舎も設置。
逮捕前、『聖母の騎士』隔月刊1940年12月1941年1月合併号で、コルベ神父は次の様に書いています。
「この世の誰も真理を変えることはできないのです。―中略―本当の闘いは心の内面での闘いなのです。占領軍も、抑え難いさまざまの情熱も、絶滅収容所も何も関係ありません。一人ひとりの霊魂の最も深いところに、和解することのない対立、つまり善と悪、罪と愛が存在しているということなのです。ですから、もし我々が自我の最も深いところで敗北するならば、戦場での勝利が何になるでしょう」
しかしこの記事はナチスを刺激。
ポーランド人の他にユダヤ人、イスラム教徒、プロテスタントも含む避難民や負傷者等3500人もの人々を救護センターとして収容したニエポカラノフ修道院は、組織的にユダヤ人をかくまったことで、みせしめのためにドイツ空軍によって爆撃を受け、逮捕間近となったある日、神父は、焼け残った建物に仲間全員を集め、次のように話されたそうです。
「発展というのは、建築物の建つ広い地所や機械といった外面的な財産にあるのではなく、心の中、精神にあるのです。たとえ学問であっても、正しい心に支えられていなければ本当の発展とはいえません。私たちは自分だけの幸せに生きるのではなく、人々への愛と平和のために捧げる覚悟を持ちましょう」
何百人と詰め込められたアウシュヴィッツへの貨車の中で多くの人々が不安と恐怖に慄いている時、人々を励ますためにコルベ神父は小さな声で讃美歌を歌われ、やがて歌声は次第に広がり大合唱となっていきました。 -
囚人番号16670号の痩せ衰えたコルベ神父
このような状況下でも母を慰めるために、アウシュヴィッツから母に出した最後の一通、6月15日付けの手紙には
『愛するお母さま、5月の末頃汽車でアウシュヴィッツ収容所に着きました。私は元気です。私と私の健康については心配せずに安心していてください。慈悲深い神さまはどこにでもいらして、大きな愛をもって全てをお計らいくださいます。私からお便りするまで、お母さまの方から手紙を寄こさない方がよいでしょう。ここにどのくらい滞在することになるかまだ分かりませんから。心からの挨拶と口づけをもって ライモンド・コルベ』
ドイツ語で書かれたこの手紙が絶筆となりました。 -
コルベ神父の名声はポーランド中にとどろいていただけに、アウシュヴィッツでは、特別な憎悪の対象とされ、狂気のような凄まじい虐待を受けたそうです。
病身の上に、他の人の倍の重さの木材を背負わされ、壮絶な重労働に力尽きて倒れれば鞭攻めの嵐の中で、コルベ神父の余りにも痛ましい姿にたまりかねて駆け寄り手助けしようとした同僚に、
「ありがとう。でも危ないからおやめください。私は大丈夫。まだまだ頑張れます」と、同僚を巻き添えにするまいと優しい微笑みさえ浮かべて、けれどもかすれきった声で懇願されたそうです。
鞭で打ちすえられ瀕死の状態になり血まみれで放置されたコルベ神父を、同僚たちは夜の闇に紛れてやって来て連れ戻し、入れられた収容所の病院で看護係をしていた人物は次のように語っています。
「コルベ神父の身体は青黒くなり高熱を出していました。しかし、私が困難に直面した時などは、逆にコルベ神父に元気づけられ慰められました。私は、母親のようなあの方の優しさにこの上なく感謝しています」
担ぎ出される死者には、永遠の安息を祈り見送ることが自分の務めなのだからと祈り続けられ、他の人の身代わりになって殴打されたこともしばしばでした。
そんなコルベ神父に看護係がこっそりと一杯のお茶を持って行っても、
「他の方々はいただいていませんのに、私だけが特別扱いを受けては申し訳ありません」と固辞され、わずかに与えられる食事でさえ大部分をいつも他の人に分け与え、痩せきっても優しい微笑みでこうおっしゃったのだそうです。
「私は若い時から様々な苦難には慣れていますが、人にまでその無理を強いたことを反省しています。私のことでしたら心配はいりません。私よりも誰かもっと他に苦しんでいる人がいるでしょう。その人たちに…」
布教活動に際し、人にまでその無理を強いたとおっしゃる、謙虚で内省的なコルベ神父のお姿に心打たれます。 -
強制収容所のこの世の地獄では収容者たちの心はすさみ、小さなパン切れのことでさえ激しく争うようになっていたそうです。
収容者だった一人、ヘンリコ・シェンキヴィッツ氏は次のように回想しています。
「私が重い労働に行くことになっていた朝、コルベ神父は、その日の分のパンを私の手に握らせようとしました。神父はとても衰弱していることを知っていましたのでびっくりして断ると、神父は私を抱擁し、こう言い張りました。
『持って行ってください。あなたは重い労働をするのです。あなたはお腹が空いています』
でも神父には夕方まで食べるものは何もないと知っていましたので、悲しい気持ちでした。」
少し体力を回復されると、またコルベ神父はじっとしていないで誰か悲しみや苦しい表情をしている人には心配があったら話してくださいと優しく声をかけられ、連夜、人々の告解を聴き、死を間近にしておびえている人々をあやすようにその手を握りしめ、或いは抱きしめながら慰め励まされたそうです。 -
アウシュヴィッツの地獄にあってもコルベ神父はいつも朗らかで快活で、気落ちした人々を勇気づけられました。
コルベ神父の周りには話を聞きたいと収容者たちが集まり、そんな時神父は静かに語られたそうです。
苦しみや悩みは私たちを絶望の底に落とすためにあるのではなく、人間として更に強くなるための糧にしなければならないこと。
憎しみからは何も生まれず、愛のみが創造の力を持っているということ。
愛に団結するならばどんな困難も乗り越えて行けるはずということ。
**********
愛は寛容であり、愛は情け深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
(聖書:コリント人への第一の手紙13章)
**********
宗教活動が禁止されていた収容所の中で危険を侵しても、聖書の言葉を人々に語り励まされ、生涯それを実践されたコルベ神父。
「全ての隣人を、一人の例外もなく、友人と敵の別なく愛せよ、迫害者に愛を以て報いよ」と言うのは容易くとも、それを実践するのはとても困難なことなのに、コルベ神父のような方が実際に存在されたということに胸が熱くなります。
収容者たちはコルベ神父の存在にどんなに心救われたことでしょう。 -
1941年7月末、アウシュヴィッツで一人の脱走者が出たことで、見せしめとして、無作為に選ばれた10人が餓死刑に処せられることになりました。
10人の中に選ばれたガイオニチェクという一人のポーランド人軍曹が「私には妻子がいる。もう一度会いたいんです。死にたくない」と泣き崩れたその時、コルベ神父は前に進み出て、
「あの人と私を代わらせてください。私はカトリック神父で妻も子もいませんから。あの若い彼を妻子のもとに帰してやってください。どうかお願いします」
と身代わりを申し出たのでした。 -
コルベ神父を含む10人の収容者は裸にされて地下の餓死室に押し込められました。
この餓死刑は食物のみならず水分さえも与えられないというもので、餓死室で受刑者たちは錯乱状態になり牢内は憎しみで阿鼻叫喚の地獄のようになったと当時の司令官の告白遺録に記録されているそうです。
そんなおぞましい拷問刑である餓死室の中でも、コルベ神父は毅然とし、嘆き悲しむ収容者たちの心をなぐさめ励まされました。
コルベ神父はコンクリートの床にひざまずき、或いは壁に背を支えて静かに讃美歌を歌い、コルベ神父を中心に一同がそれに唱和し、やがてその祈りと歌声は隣の牢の人々にも広がっていったそうです。
ナチス兵を見るコルベ神父の目には憎しみは無く、そのナチス兵たちのためにも祈り、牢の管理人のボルゴヴィツ氏は、そんな牢内が厳かな聖堂のように感じられコルベ神父の澄んだ目は生きているキリストのようであった、と証言しています。
一人二人と亡くなり、二週間が過ぎ、残る三人がぐったりと瀕死の状態になっている時も、コルベ神父は壁にもたれ目を開いてとぎれとぎれの声で祈り続けていらしたそうです。
青年期からから重い肺結核を患っていた病弱なコルベ神父なのに、これは最後の一人をも安らかに天国へ送るのが務めと考えたコルベ神父の意志と使命感が成した奇跡だったのでしょうか。
そして14日後、とどめを刺す為にフェノール注射を持って入って来たナチスの軍医に自らの左腕を静かに差し出され、最期にマリアさまの名を静かに呼び、自分のためでなくただ他者のために生きられた47年の崇高な生涯を閉じられました。
人々の罪を背負い裸で十字架にかけられたキリストの姿がコルベ神父さまに重なります。 -
1941年8月14日12時50分 聖母被昇天の祝日の前日、帰天。享年47歳。
助かったガイオニチェク氏は、1995年に93歳で亡くなるまでコルベ神父さまの愛に感謝しその崇高な行為を人々に伝えることが使命と考え世界各地で講演し続けたそうです。
「私と代わられたその日、コルベ神父さまは残される私たちに何もおっしゃらず、ただ優しい笑顔でうなずいてお別れをされただけでした。神父さまは『安心しなさい』と言っているようでした。でも神父さまの顔は輝いているようでした。コルベ神父さまは、私一人の為でなく、もっと多くの人々の心を救われたのです」と。 -
コルベ神父さまのステンドグラス。
コルベ神父さまの御遺体はアウシュヴィッツの焼却炉で焼かれて撒かれてしまったので、お墓はありません。
けれども、場所にも名誉にも拘らなかったコルベ神父さまは天国でそれをよしとなさっているのではないでしょうか。
生前コルベ神父さまはセルギウス修道士に「私が死んだら私のことはすっかり忘れてください。けがれなき聖母のことだけを覚えてください」と何度もおっしゃっていたそうです。
そしてまた次のような言葉も残しておられるそうです。
「私が汚れなき聖母のために微塵にされ、私の灰が風で世界中に吹き飛ばされて何も残らなくなったとき、そのときこそ、私の汚れなき聖母に対する愛はまっとうされるでありましょう」 -
幸福って、裕福でも地位があることでもなく、人を真に愛し赦し赦され感謝する慎ましやかな生活と心の中にあるのだという当たり前のことを再確認した旅行でした。
近頃、何か悲しい気持ちになったりした時には(勿論コルベ神父さまの苦難とは比較すら出来ない些末なことばかりなのですが)、コルベ神父さまだったらこんな時どんな風に行動されるかしらと考えることがあります。
すると不思議にだんだん心が晴れ晴れとして来るのです。
今振り返って、あの日聖アンナ教会であんなにも感動したのは、美しい聖歌にコルベ神父さまの歌声を感じたからのような気もします。
人々を愛し、人を赦すという大きな愛で命をかけて平和の道具となられたコルベ神父さまは、亡くなられても今も天国からその生き方と限りない愛で皆を励ましてくださっているのですね。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。問題のある投稿を連絡する
その他の都市 旅行記ランキングこの旅行記は現在2位 (65票) です。
その他の都市のおすすめ観光スポット
-
-
カルヴァリア・ゼブジトフスカ:マニエリスム様式の建築と公園の景観複合体と巡礼公園 - 3.07
- 史跡・遺跡
- 日帰り可能な世界遺産
-
-
-
ヤスナ・グラ修道院 - 3.07
- 寺院・教会
- 聖画「黒いマドンナ」で有名
-
-
-
戦闘と苦難博物館・ラドゴシチ館
- 0.00
- 博物館・美術館・ギャラリー
-
-
-
聖アレクサンドル正教大聖堂
- 0.00
- 寺院・教会
-
-
-
旧木造教会
- 0.00
- 寺院・教会
-
その他の都市のホテルピックアップ(もっと見る)



























































