【江西省】 廬山・九江 * 旅する
4位
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- 旅行時期 :
-
- 2003/03/20 - 2003/03/25
- (約9年前・6日間)
- テーマ :
- 遺跡・史跡・歴史
- 投稿日 :
- 2011/07/31(約10ヶ月前)
- 写真 :
- 12枚
- コメント :
- 0件
- 旅の満足度 :
- 観光 :
- ホテル :
- グルメ :
- ショッピング :
- 交通 :
- 交通手段 :
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- 現地移動 : 鉄道 / タクシー / 飛行機
- 同行者 :
- 一人旅

転寝と 旅を続ける 春炬燵
江西省の旅は、すでに【南昌】、【景徳鎮】には数年前に行ったので、今回は【廬山】行が唯一の目的地であったのだが、乗り物の関係で、南昌には再び立ち寄ることとなった。
芥川龍之介の「長江游記」、そして松本重冶の「上海時代」を時々拾い読みをしていると、【廬山】という地名に、しばしば出会うのである。そして、同時に思い出したのは、嘗て学んだ”枕草子”に載っていた清少納言の自慢話にも、この廬山が関係していることに気がついたのである。僕の頭の中で、これらの偶然の出会いが、この地に行かなければとの思いに、いつの間にか陥ったのであろう。
1930年代、日中戦争が激しくなるにつれ、蒋介石はこの廬山で、会議を頻繁に開いているのである。特に、蒋介石は侵略を拡大する対日問題と、解放区を拡大しつつある対共問題を、いかに対応するのかの最も緊急かつ重要な会議を中心に行なっていた。そして、1937年6月から8月掛けては、周恩来との間で、国共合作のための本格的な交渉の、詰めの段階に入っていた。
中でも僕が最も興味がのあったのは、清少納言の【枕草子】に出てくる廬山である。 中宮が「香炉峰の雪は?」と尋ねられたので、清少納言は直ぐに御簾をかかげたという話しがある。清少納言は、自分のその行動を得意げに書いているのだが、当時僕は、それがどうしたのだと、読み過ごしていたのだ。その後、この香炉峰は、廬山の峰の一つだと、僕は何かの本で見つけたのである。白楽天が麓の九江に左遷され赴任していた時に、徒然に、草堂から廬山を眺め詠んだ詩に“香炉峰の雪は簾を撥ねて看る”(香爐峯雪撥簾看)という一行があり、清少納言は、そのことを知っていたのは自分だけだと自慢しているのである。そこで僕は、左遷され無聊の日々を過ごしていた当時の白楽天の気持ちに近づくや、この香炉峰は廬山のどこにあるのか、見つけようと思い立ち、この地にやっとやって来る事が出来たのである。
しかし生憎と廬山は、冬に逆戻りとなっており、夜間はマイナス10度近くまで下がり、寒さに意外と強い僕でも、暖房の効かない部屋で寒さに震え夜明けを待つという厳しい歓迎を受けることとなったのだ。
国民党の時代は、蒋介石の奥さんの宋美齢の名前を付けた【美廬別荘】が廬山会議のメイン会場であったようだが、 翌日もあまりの寒さに、この建物を中心にこの周辺で、僕は半日ほどうろうろとしていた。
解放後毛沢東も、ここを宿舎として、精力的に会議をこなしていたようである。共産党政権下では、この地での会議が政治的な大きな事件(彭徳懐失脚、林彪失脚)となっているが、その難局下の忙しい合間に、毛沢東は夜な夜なダンスパーティを開き,江青夫人をやきもきさせていたようでもある。
次の日、廬山の北面の九江側に下り、下から香炉峰を眺めようと、麓にある【鉄仏寺】と【東林寺】に出かけて行った。そこで、香炉峰について尋ねたのだが、結局は、よくわからないのである。その上生憎とその日は小雨が降る天候であり、そこからは廬山の峯は見えず、地図上でも、そのような名前を探し出すことが出来ず、たまたま尋ねた村人も、そのような名前の峯は知らないと言うのである。訪ね歩けば歩くほど、良く分からなくなり、白楽天の香炉峯と、李白の香炉峯があるという話まで出てくると、何やら良くは分からないところが中国的であると、僕も妙なことに感心をする有様であった。物の本によれば、廬山には南北の二峰があり、雲気の立ち上る様が香炉に似るというところから香炉峯と呼ばれているという。白楽天が「香炉峰の雪は簾を撥ねて看る」と詩に詠んだのは、そこでは北香炉峰だと説明されているのだが・・・。
丁度、中国に滞在中に、全人代会議が開かれ、新しい中国の首脳が選出されたのだ。外国人には情報も少なく、とても分かりにくい中国の政治については特に興味があるわけでもないが、隣の国でもあり、旅でお世話になっている以上些かの関心を持たざるを得ないのである。今回選ばれたのは、江沢民の息が掛かっている人たちと言われているが、しかし、江西省出身の改革派で天安門事件で失脚した胡耀邦の系統を引く人も多く選ばれているようだ。主席の胡錦涛、首相の温家宝、副主席の曾慶紅は、80年代はむしろ胡耀邦派であったと言われている。しばらくは江沢民の院政が続くのであろうが、江西省出身の元老を父に持つ太子党?であり、江沢民の側近中の側近といわれている曾慶紅が、第三世代の元老と、これらの現実的なテクノクラートとの調整役を果たしながら徐々に、胡耀邦の目ざそうとした方向に進んでいくのではとの期待もありそうである。
廬山の帰りに、長江の調整湖といわれる○陽湖(○は、旁は番、偏はおおざと:日本語読みでは、はようこ)の近くにある胡耀邦の墓に偶然に行くことになった。お墓と言ってもかなり大きな公園であるが、生憎の雨降りも重なり、僕以外の参観者は誰もいなかった。受付の係員は、この寒い雨降りに、余ほど物好きな日本人だと思ったことであろう。
山崎豊子が一人の残留孤児の話を追っ駆けながら、書き上げた【大地の子】の創作活動を、いろいろと配慮して、バックアップをしたのが胡耀邦であったようだ。後に、この墓の前でひざまづき、思いに耽る山崎豊子の写真を見たことがある。
しかし政治はどこも一寸先は闇、と言っても、今や、日本にとっては中国との係わり合いを考えなければならず、彼らの行く末をしっかりと見定めなければならない。今の日本の政治家の中国観を見ると、犬の喧嘩の如き慎太郎観か、懺悔ありきの野中観しかない様に思えるのだが。中国の第四世代のテクノクラートの本音は、実は歴史的な認識よりも、現実的な対応に関心があり、国家観を持たぬ政治家の靖国詣でなどはもはや意味がないことは十分承知しているのではないだろうか。方便として靖国神社問題で牽制しながら、経済的な優位性(特にハイテク技術の移転問題)を確保していくことに関心があるのではと思えるのだ。もちろん、その経済力をバックに、中長期的には政治的覇権を目指すのではないかとの心配は当然に考えなければならないだろう。どう見ても歴史的な認識に連綿としているのは、今や、中国ではなく、日本であるということを、僕らは気がつかなければならないのではと、この旅で何やら感じるのである。
九江のホテルの前に立つと、長江は人間どもの愚かさを笑うが如く、今日も変わることもなく気儘に流れている。旅の終わりは、いつものことではあるが、何故か現実に引き戻されて行くのである。
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