桂林・漓江下りと長江クルーズ(その14・荊州城)
1位
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- 旅の満足度 :
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- 交通 :
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-
- 現地移動 : 観光バス
- 同行者 :
- カップル・夫婦(シニア)
- 手配内容 :
- ツアー(添乗員同行あり)

荊州博物館の最大の思い出は、あの屈原の姿を見たことでした。
その博物館の次は、三国志にも登場してくる江陵城(本文では“荊州古城”で書いています)でした。
桂林でも「靖江王府」というお城を見ましたが、それは広い市域を囲む城郭の中でお殿様がいる場所としての“城(宮殿)”で、北京城の中の紫禁城のような城でした。
しかし、ここはちょっと違って、殿様がいる城はなくて、街を城壁で広く囲い込んだ「城郭都市」なのです。ここでは「靖江王府」のような宮殿はないのでした。
ここは、あの曹操も周瑜も劉備も重視した土地、すなわち戦略的な価値のある土地だったのでした。三国志を読んだことのある人なら、一度は訪れたい江陵城はどんなところだったのか、江陵城の東側の門である、『東城門』を通してご紹介しますね。
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3月14日の午後、荊州の2番目のポイントへやってきました。
ここは荊州古城(荊州城・江陵城とも言われる)の「東城門」のようです。
荊州博物館へ向かう時に見えた城門です。
さぁ、どんなものが見られるんでしょうか? -
城壁を登ったところから北の方を見ましたら、このような馬と兵士の姿がありました。
この馬を引く兵士は特にエライ人でもなさそうで、エライ人に付いている兵士なのかも知れませんね。
(Nさんご提供の御写真です) -
東城門は、門を中心に城壁を四角状に巡らせて城門を2重にして、その間を広場とし、攻守両面で活用したようですね。
この門を2重にした形は、甕城(おうじょう)と言うようです。城門としてはデラックスタイプと言えますよね(^-^)
城壁上の建物は日本で言う城の「天守閣」ではなく、門楼と言われるもののようです。
高い所から敵の様子を見たり、武器や食料を蓄えたりしたところかも知れませんね。
★↓は荊州古城の「東城門」があるところです。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=30.35,112.210834&spn=0.002727,0.002857&iwloc=0004ac69bbdc304262199
★甕城(おうじょう)の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%95%E5%9F%8E -
東城門の外側に見えるこの川は、川ではなくて城の外周を囲む「お堀」です。
お堀は日本の城だけかと思っていたのですが、中国の城にもヨーロッパの城にもお堀を持つ城が結構あるのですね。
★↓はダムで止めた川と堀で囲まれたストラスブールの旧市街です。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000484f247af7bb2ef329&msa=0&ll=48.579191,7.748194&spn=0.016723,0.022852
★↓は城壁と城で囲まれていたと言われる北京城の外周です(航空写真でご覧下さい。赤い線をクリックしてみて下さい)。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00049cdfd36f42da20e4b&msa=0&ll=39.902362,116.392078&spn=0.155129,0.182819 -
ほぼ四角に作られた城門の東側の城壁です。
右側の壁の上には、最初に見た門楼が建っています。
この荊州古城(江陵城)は三国鼎立の三国志の時代だけでなく、地理的にも政治的にも常に中国の真ん中あたりに位置するところにあって、交易の面でも政治戦略の面でも要衝といわれてきたのです。
(その13)でも触れましたように、楚がこの荊州に紀南城という大規模な都城を築いたのも、この地の戦略的位置づけを知っていたからでしょうね。そう言うわけですから、荊州古城こと江陵城はしばしば諸国家の戦略目標となり、将軍たちの争奪戦の舞台ともなってきました。
三国時代の話に戻れば、劉備も諸葛亮もここを重視して関羽に城まで造らせました。曹操も孫権も江陵を目指しました。孫権の武将・周瑜(しゅうゆ)も江陵攻略に向かったのでした。周瑜はそれが仇となって流れ矢にあたり、病に陥り命を落としてしまったのでした。
日清戦争で日本が清に勝利すると、重慶開港とともに荊州開港も迫ったのです。 荊州はそんな因縁のあるところだったのですね。 -
門楼をバックに記念写真です。
この荊州古城の築城に最初に着手したのは、劉備から指示を受けた関羽将軍と言われています。
もちろん、現在残っている規模で一度に出来たわけではなく、その後の拡張と破壊、再修復を重ねながら明代・清代の形が現在に残っているとのことです。
このような門楼は、全長10.5Kmもある城壁の要衝に設けられているとのことです(大きさや形は違うようですけど)。 -
↑の門楼の真下の門です。
門の内外で、観光客相手に細々とした商売をやっているんですね。
彼らの姿を見ていると、どういう事情で商売をしているのか分かりませんが、何となく同情してしまいます。
人々の姿が見えたついでに言えば、漢時代の最盛期だった前100年頃から関羽将軍が活躍した200頃までのおよそ300〜400年年ほどの間に、およそ8000万人〜1億と推測された人口が(浮浪者・奴隷まで含んで推定)、1千万人弱ほどまでに激減していたという話があります。
その数字の信頼度は分かりませんが、いずれにしても、政治の混乱と天災(干ばつや病害虫・河川氾濫のほか)、そして疫病の蔓延が重なるという大変な時期だったと想像されます。
そうした言語に絶する苦難が戦争の理由にもなり、そのための城塞建設の必要も生じるわけで、人類史は本当に泥水を飲むような苦難を繰り返してきたわけですね。関羽将軍が荊州古城建設に着手した時代というのは、正にそう言う時だったのでした。
大陸においては、中国に限らず人口の大幅な変動は結構あるようです。
フランスの百年戦争のころ人口が半減したとか、ドイツも三十年戦争の時に3割以上人口が減ったとか。アメリカ大陸では(特に中米・北米など)、ヨーロッパから持ち込まれた戦争や疫病によって先住民が激減しましたし、オーストラリアのタスマニアでは先住民が絶滅したと言われています。
★↓はメキシコの話です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/21385357/
(中国の人口は、四川省以東・遼寧省以南の地域で、現在人口がおおよそ10.5億人の地域においての、文献等に基ずく私の推測です)。 -
東城門の南東門の広いところに展示してあった、荊州古城の模型図です。
右端に私達のいる東城門と賓陽楼があります。
この城郭の規模は、東西3.75Km で南北が1.1Km、城郭の外周全長は10.5Kmもあり、途中6ヶ所に甕城(おうじょう)形式の門があるということです。
さらに、愛宕元著「中国の城郭都市」によれば、城郭上には1567の女墻(じょしょう・低い防御壁)に、26の砲台や4ヶ所の蔵兵洞まで備えてあったようです。
日本の城とは大違いですね〜。
大陸では都市とか戦略上地形のよい一定の区域を、街ごと城郭で囲ってしまうんですね。この点は、朝鮮半島からポルトガルまでほぼ共通していますね。
【※】“蔵兵洞”は兵隊を隠す地下通路・洞窟のようです。しかし、兵隊を食べさせるなど維持にかなりの負担がかかることや、敵に塞がれてしまうと全滅する危険があるとの話があります。
【※】女墻(じょしょう)は、城郭城にある低い塀のことらしいです。 -
余計な話までしますと、愛宕元著「中国の城郭都市」によれば、清の時代の1684年に城郭内を東西に2分する土墻(どしょう・土を盛り上げて作った垣根のようなもの)を築いて、西側を漢城、東側を満城としたというのです(この模型のやや右寄りに仕切りのようなものがありますが、これかも知れません)。
清王朝は満蒙民族の中国支配によって打ち立てられた王朝です。 そこで、各地の軍事力の中核を満蒙民族の精鋭部隊である八旗兵に置き換えていったというのです。
その一つの方法が、城郭内を2分して、そこに八旗兵を駐屯させることだったようです。そこが、満蒙族の軍隊が駐屯する「満城」というわけです。それ以外の分は漢民族の「漢城」となったようです。
このように城郭内を二つに区切って“満城”“漢城”として使った例で有名なのが、西安城といわれています(西安城は長安城の後を引き継いでいますが、戦乱等で縮小された長安城を逐次拡張・再建しているため、城郭の外周は約12Kmで、長安城時代よりかなり小さいです)。
中国の歴史の特徴の一つには、漢蒙民族と漢民族の対立と王朝の交代があったことが指摘されるとのことです。 -
門楼にかかっている額を見ますと、「賓陽楼」とありました。
なんか、料亭の名前みたい(^o^)
確か、「○△楼」なんて、雅な料亭がどこかにありましたよね。
「楼」ってなんだろうと思って、辞書を引いたら、
「高く構えた建物」とか「遠くを見るために築いた高い建物」だとか。
そりゃそうだよね。戦の多い時代、遠くが見渡せなきゃ戦にならないからね。
間抜けな私の独り言でした(~o~)
(Nさんご提供の御写真です) -
南側から見た賓陽楼です。
戦争との時には見張り台として、平時には権威の象徴として、その役割を果たしてきたのでしょうね。
何時も思うことですが、日本のお城も外国のお城も、あの昔に土砂を積み上げて高い石垣の上に作った割りには、しっかりしているな!と言うことです。
現代の団地や埋め立て地などで、地面が凹んだり液状化したりして家が傾いたりなんてことはあんまり聞かないですね。
それは、現代の技術がどうのこうのと言うより、コストを追求しすぎる結果ではないかと思いますね。
(Nさんご提供の御写真です) -
賓陽楼の南口の近くにあった蜀の武将、姜維(きょうい)の立像です。
ずいぶんな美男子ですね。
文武ともに優れた彼の才能は、諸葛亮にも高く評価されていたようで、三国志演義にも登場してくる人です。ですが、孔明の死後多少の揺らぎがあったようです。
★姜維の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E7%B6%AD -
この立像の名前が分からないです。
ひょっとして「趙雲」?なんて思うのですが、さて、どうでしょう?
もし、趙雲だったら??
三国志で彼の一番の見せ場は、劉備の子「阿斗」を救い出すところでしたね。私もテレビで見ました。
一人で敵と戦い阿斗を救いだすと、曹操軍の中を単騎で駆け抜ける!!本当に勇敢な戦士でしたね。新婚旅行で上座を取られたどこかの間抜けとは、太陽とスッポンの違いですね〜(敢えて“月”とは言わない)。
そして、阿斗を劉備に差し出すと、劉備は我が子を地面に放り出して、
「我が子より、お前の方が大事だ」
と言ったとか言わなかったとか。何時も人を想い、部下を想う劉備ならではの言葉ですね。
趙雲も立派な将軍でしたね。
★趙雲の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%9B%B2
★趙雲が阿斗を救った「長坂の戦い」は↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
(Nさんご提供の御写真です) -
ちょっとボケてしまいましたが、賓陽楼の中にあった劉備とその将軍たちの像です。
さて、どれが誰だか分かりますか??(~o~)
ハイ! 近藤さん。分かったようですね(^-^)
「後列中央が諸葛亮さんです」
ブー、残念でした。
実はねぇ、前列右が諸葛亮さんです。前列左が劉備さんですよ。
後列の人は左から、張飛さん、関羽さん、趙雲さんということでした。それにしても、これだけの英雄が並んでいるなんて、迫力ありますね。
上でも少し触れましたが、これらの英雄が活躍した時代は、うち続く戦争の中を庶民は逃げ惑っていたと言われます。主要な民たる農民は、度重なる戦役と賦役・干ばつなどの天災に疲弊し、世は乱れたのですね。それがまた、戦争の理由にもなったんですね。
ところで、劉備の死後どうなったかと言いますと、諸葛亮らが元気なうちはなんとか蜀の国を治めました。
しかし、諸葛亮が後を托した4人が没したあとは、中国の歴史の常がそうであるように宦官の黄皓が政治を私物化し、蜀は魏に滅ぼされる道を歩んだのでした。
三国志で、あれほど私達をわくわくさせ、宦官の“か”の字も感じさせなかった英雄たちの活躍も、結局は宦官の実務を基盤とする中国の政治体制の根底的体質の中での話だったと言えますね。
それを思うと、ちょっとガッカリもしました。もちろん、一国一代で宦官の体制を変えられるものでもないのですけどね。 -
諸葛亮も関羽将軍も、中国国内だけでなく日本でも人気者ですよね。
ところで、中国国内で彼らと並ぶ人気を誇る歴史上の英雄がほかにもいるとのことです。
それは「岳飛将軍」ではないかと言うのですよ。
『漢民族の英雄「岳飛」』という記事によれば、歴史のことなど全然知らない中国人女性でも、「岳飛」のことは知っている人が多いというのです。
岳飛は北方民族の女真族の金王朝の南宋進出の軍勢と戦って、北方民族から漢民族を救ったというのです。
岳飛も文武ともに優れた優秀な将軍だったのですが、彼の才能を妬んだ秦檜らの連中に讒言されて、39歳で殺されてしまいました。後になって彼のえん罪は晴れたものの、その損失はホントに大きいものだったと想いますね。
中国史には、優秀な人材が妬みや讒言によって命を落としたり逃亡せざるを得なくなった事例が本当に多いですね。これは、主体や問題や形は違えども、今の日本でも言えることだと思いますね。
★岳飛の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B3%E9%A3%9B
(Nさんご提供の御写真です) -
この三人は誰なのか?
これまた、分かりません。
中国には豪快な英雄が一杯いますからねぇ。ホント分かりません。
ただ、当てずっぽうなことを言えば、↑の5人の中で後列の三人かな?と想像したりします。
※追記
この写真の三人は、左から張飛さん、関羽さん、趙雲さんのようです。
教えていただいてありがとう御座いました<(_ _)>
★↓は城郭上で頑張っている趙雲さんです。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/24108899/ -
英雄の像がたくさん置いてありました。
売り物なのか?なんなのか?ガイドさんに聞きもしませんでしたが、誰か一人くらい買ってもらいたいなと思いましたね。
でも、カミさんにはやっぱり言えなかったですね(-_-;)
あの屈原の像も買えなかった(-_-;)
ちょっと情けない私です。 -
東城門の南東角にある門です。
城郭が両側から繋げられるところあたり、くびれて入り組んだ形をちゃんと作っているところは、かなり丁寧な作り方をしていますね。
城郭城の広いところの隅に、先ほど見た荊州古城の模型図のあるのが分かりますね。 -
東城門の北東角の様子です。
こちらには門が作られていませんね。
上にも申しましたが、このような門の作り方を「甕城(おうじょう)」と言うのでしたね。
責める方からすれば、往生してしまいそうですね。(~o~)
甕城の上は数mの幅があって、兵隊が移動できます。両側は“低い防護壁=女墻”を備えています。女墻には切り込みや穴があって、敵を弓矢や鉄砲で攻撃しやすいようになっていますね。 -
賓陽楼から城郭内町の方を撮ったものです。
間近に見る建物は、正に中国の建築と言えるもので中国らしさを感じさせてくれていますね。
実は(その13)の、城壁の下をくぐってからの全ての街の様子は、荊州古城の城郭内の市街地なんです。
アパートがあったり、病院があったり、今風の商店街があったりしましたね。 -
これは賓陽楼から真っ直ぐ西を見た光景です。
目の前の家々は、これまた中国らしさを残していて、とってもいいと思います。
ただ、↑の写真もそうですが、ほかの大きい建物を見ますと私達が荊州古城内にいることを忘れさせてしまいます。
ヨーロッパの旧市街にいて、旧市街にいることを忘れることはまず無いのですけどね。
★↓は桂林の旧市街地のビル群です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/22099188/src.html
★↓はケルンの旧市街地の光景です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/19512528/src.html -
賓陽楼内の階段です。
戦闘も予想される城門の設備にしては、階段の傾斜はそれほどきつくないです。
★↓は国宝・彦根城の階段の傾斜です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/18830448/src.html -
若くて男らしい美男子ですね。
この人は「関興」と言う人で、関羽将軍の子と言われています。
関羽将軍の死後その後を継ぎ、諸葛亮からも将来を嘱望されたという立派な戦士だったようですね。
★関興の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%88 -
賓陽楼の屋根の四隅にいる動物たちがちょっと気になっていたモンですから、撮ってみました。
一番端にいるのは、名古屋城のシャチホコみたいな感じですけど、それに向かっている5匹は、おそらく獅子でしょうね。
頭には鶏のトサカみたいなのがありますけど、後ろの2匹以外はそれぞれ形が違うんですね。
あご髭も後ろの2匹には無い(~o~)
おそらく、前の方ほど年長で上役と言うことでしょう。後ろの2匹は髭もないところをみると若造なんでしょうか?? -
城門の見物を終えてバスに戻ってきましたら、このお姉さんが道端で栗を売っていました。紙袋に一袋で何元だったか忘れましたが、皆さんが買ってあげてましたよ。
そして懐かしいのが、あの秤ですよ。
あれと全く同じような秤は、私が小学生のころまで家にありましたよ。
いや、もっともっと大きな秤もありました。米俵や山羊の体重を量ると言ったことに使っていましたね。 -
東城門を城内側の正面から捉えた様子です。
本当に威風堂々としていますね!!
当家のカミさんみたいです。
ところで、この荊州古城は中国にとって歴史的価値が高い施設として、「国家歴史文化名城」に指定されているのですよ。
重慶の「磁器口」や「石宝寨」では「 国家等級旅游区」に指定されていましたが、それは観光地の指定のようです。観光地と歴史遺産とは違うということですね。
国家歴史文化名城は、現在102の都市が指定されているようです。しかし、その詳しい内容はちょっと分かりません。
(Nさんご提供の御写真です) -
万里の長城とかを別にすれば、こんなに長い城壁を見るのは初めてです。
もちろん、途切れ途切れになって部分的に見られる城壁は、桂林でもヨーロッパでも見ていますけどね。できれば、数百メートルだけでも城壁に沿って歩いてみたいですね。
★↓も城壁でした。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/19609190/src.html -
大きなビルが見えてきました。
これはオフィスビルですよね。それに、オフィスビルにしては何となく汚い。
それと、あの貼り付けたような出窓??があちらこちらに・・
ちょっと面白い光景です。
下には「中国建設銀行」なんて書いてありますが、さぁどうでしょうか。 -
船に戻ってきました。
何時もお話ししますように、クルーズ中においては、船は私達の自宅みたいなモンです。
ですから、船を見ると「帰ってきた」という感じがするんですよ。
私達の部屋は、あの黄色の矢印で示したところです(たぶん間違いないと思います)。 -
続けて撮影した平屋住宅街です。
長屋風のつくりですね。
日本の会社でも、戦前戦後期に建設された社宅は、このような長屋風のものが多かったですね。
ですから、このような長屋を造った気持ちは、何となく分かりますよ。
ただ問題は、周辺の清潔度ですね。 -
これは、船内に掲示してあった漓江の光景です。
これと同じ風景は撮れなかったです(-_-;)
★↓の写真が多少近い感じなんですけど・・(>_<)
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/22171095/src.html -
これは、私達のコースとは違った場所の光景だと思います。
この二つの写真を見ても、こうして船を漕ぐ時代が懐かしく思えてきます。
大阪万博のころから、世間では自動化・デジタル化がはやり、その都度これで“ラクになる”と言われ、それを信じてやってきました。
それが、今では人はラクになるどころか、ますますアクセクするばかりになりました。そればかりか、人間の尊厳は確かに軽くなりました。
いったい何が良かったのか?? そんな想いが脳裏をよぎることもありますね。 -
ステキな演奏です。
二胡は以前名古屋の演奏会で聞いたことがあるのですけど、調べてみると「中胡」「高胡」というものもあるのですね。中胡は二胡よりも低音を、高胡は二胡より高音で澄んだ音色を出すようです。
(Nさんご提供の御写真です) -
琴演奏
中国の琴も、日本の琴も構造は同じなのでしょうかね。
日本の大学では、欧米の音楽とか建築とかを正規の科目として教えていることは誰もが知るところですが、日本伝来の音楽(琴・三味線・太鼓・尺八・浪曲・詩吟ほか)や建築(神社・仏閣・民家ほか)の理論・技術なども、大学の正規の科目としてどの程度教えられ、研究されているのでしょうかね?
もしご存知の方がおられましたら、教えて下さいね。 -
私達も、皆さんとご一緒に記念の写真を撮っていただきました(^-^)(*^_^*)
荊州古城。
中国史と三国志にもう一歩近づいたような気持ちにさせてくれたような、そんな感想を持たせてくれた荊州古城でした。
でも、少し調べてみると、荊州古城が造れら始めた時代は中国史上最悪の人口減少の時代だったなんて(>_<) そんな時だからこそ、三国志にみられる劉備の名言「自分を慕ってくれている人を見捨てることなど出来ない」や「大事を成すには人をもって大本としなければならない」が意味を持ったのでしょうか。
荊州の次は武漢ですが、その途中で見られた街の様子を載せました。
お世辞にも綺麗と言えない街は、美しくあるべき旅の思い出には加えられないですね。
でも、歴史的・文化的観点から現代中国を見るなら、あの街の様子や地面で船を造る様子は、現在の中国を見る上での貴重な材料を私達に提供してくれていると思うのです。
荊州古城。
荊州古城は、中国史上最悪の人口減少の渦中に生まれ、人々の暮らしを抱えながら生き抜いてきた歴史の証人です。そう思いますと、無性に懐かしく想います。
ホントに、もう一度行ってみたいという思いに駆られました。
(その15)に続きます。
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