女城主悲哀の物語 「岩村城跡」
4位
人気旅行記ランキング恵那93件中
- 旅行時期 :
-
- 2011/10/01 - 2011/10/01
- (約8ヶ月前・1日間)
- エリア :
- 岐阜県>多治見・恵那・中津川>恵那
- テーマ :
- 歴史・文化・芸術
- 投稿日 :
- 2011/10/01(約8ヶ月前)
- 写真 :
- 37枚
- コメント :
- 6件
-
岩村城跡
◎ 歴史(戦国時代以前)
遠山景朝以後、岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。
景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代中期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであり、織田・徳川・武田の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山・武田の手で本格的な城山が構築されていったとみられる。遠山氏の菩提寺であった大円寺跡や古市場という遺存地名からも、当初は富田・大円寺に城館や城下町があったと考えられている。
太平記の1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名が出る事から、鎌倉時代の終わりには諸国に認知される遠山氏の城が存在している事が分かる(ただし巖邑府誌では霧城とは当時の遠山氏諸城の通称で、太平記の霧城が現在の岩村城の場所にあったかは分からないとしている)。なお同記述によれば遠山三郎が城を捨てて逃げ行方知れずとあり、景廉・景朝の嫡流は一度ここで断絶している。
現在の岩村城の存在を示す最も古い遺物は永正年間の遠山頼景による八幡神社棟札(元は岩村城八幡曲輪にあった)である。
-
岩村城跡
◎ 歴史(戦国・安土・桃山時代)
1570年(元亀元年) 遠山氏最後の城主は景任で、武田信玄によって攻められたが織田信長の援護もあり守り抜いた。
1571年(元亀2年) 景任が病没すると信長は5男で当時6歳(二歳、三歳説もある)の御坊丸を遠山氏の養子とした。景任夫人は信長の叔母にあたる人(「おつやの方」又は「おゆうの方」又は「お直の方」)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に秋山信友に岩村城の攻略を命じた。しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、信友は夫人を説得し妻に迎えることを条件に城は開城した。
1575年(天正3年) 長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。長男信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、城は陥落した。開城の際、助命が約されていたが織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。
織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。河尻秀隆が甲斐国に移封となると、団忠正の居城となるが3ヶ月と経たぬ内に本能寺の変で忠正は戦死。岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引継ぎの森氏の支配は2代続いた。この時の城代となった森氏家老、各務兵庫助元正は18年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。
豊臣氏の時代、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。
1600年(慶長5年) 田丸氏は関ヶ原の戦いで西軍につき改易されると、松平家乗が入城した。
1601年(慶長6年) 家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備した。
-
岩村城跡
◎ 歴史(江戸時代)
1645年(正保2年) 大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が入城。
1702年(元禄15年) お家騒動を起こし越後国高柳藩に転封となった。同年に信濃小諸城より松平乗紀が入城した。乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けた。
以後、明治維新まで再び大給松平氏の居城となった。
-
岩村城跡
◎ 歴史(近現代)
廃城令により、1873年(明治6年)城は解体され石垣のみとなった。藩主邸は残されたが、1881年(明治14年)に全焼した。
跡地には1972年(昭和47年)岩村町歴史資料館が開館した。
1990年(平成2年)藩主邸の一部、表御門・平重門・太鼓櫓などが復元された。
-
岩村城跡
岩村城は車で来ると一気に本丸付近まで行けてしまいます。
本来なら城下から順番に本丸を目指すような登り方をした方が楽しいのですが、今回はタクシーを使った観光というわけで、時間が限られます。
そこで、最初から本丸の方へ連れてきてもらったわけです。
-
岩村城跡
竜神の井
この井戸は岩村城のうち最大規模で、昭和60年に創築800年を記念して復元しました。
昭和62年に岐阜県の名水50選に認定されましたが、今も絶えることなく、味は天然のうまさがあります。
(この井戸水は生水では飲用しないで下さい) -
岩村城跡
藤坂の険
藤坂は険しい急坂で岩村城守備の前衛の役を持ち、一の門に至る役300mの間をいう。
途中で大きく左折するが、この地点を初門又は仮御門と称していた。
戦争になると、ただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣地としたが、この初門の地点から城下町を一望にすることができるので、敵の動静も知ることができた。
平時の藤坂は登城坂にすぎないが、戦争になると初門をはじめとして、坂の途中に何カ所も陣をつくり防御したので、容易に進むことができなかった。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。問題のある投稿を連絡する
恵那 旅行記ランキングこの旅行記は現在4位 (50票) です。
この旅行記と近い旅行記
恵那のホテルピックアップ(もっと見る)






































