島旅 硫黄島編 〜褐色の海が見たくて〜
4位
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- 旅行時期 :
-
- 2010/09/19 - 2010/09/27
- (約2年前・9日間)
- エリア :
- 鹿児島県>離島(奄美大島・屋久島)>硫黄島
- テーマ :
- 花・自然・動植物
- 投稿日 :
- 2010/10/03(約2年前)
- 写真 :
- 51枚
- コメント :
- 0件
-
目的の硫黄島が見えてきました。
ってか竹島から30分程なので、既に見えてたけど。
竹島と違って山!って感じ。(硫黄岳:標高約703m)
山=島って形で利尻島を思い出しましたが、
港に向かうにつれ全く違う形となっていきました。 -
港にて民宿の方に発見され、宿に向かいました。
「一発で当たった〜」とお母さん。仕事で来る方々に混じり
降りてくるのですぐに分かるって(^_^;)
荷物を置いて、早速、散策開始!
太陽とセミの声で真夏のようです。 -
島の墓地を通りかかると、墓石の「空風火木地」の文字が目に留まりました。
気になったので民宿のお母さんに聞いてみようと思いつつ、聞き忘れてしまった。
「自然を尊敬し、自然と共に生き、自然に還る」って
印象を受け、いいお墓だな〜と思ったのですが、
どういう意味なんだろう? -
城ヶ原牧場です。
行く時は牛が一頭も見あたらなかったけど、
どこにいたのやら。
硫黄島到着時に、民宿のお母さんと一緒に挨拶した方の車が札幌ナンバーだったので聞いたところ、北海道からこの牧場をする為に移住してきた方との事でした。
元々は村長さんが経営していた牧場で、後継者を探していたそうです。 -
三島村薩摩硫黄島飛行場には待合所がポツンとありました。
この飛行場は1973年に完成したもので、
1994年にヤマハリゾートから三島村に
移管されたそうです。(現在、定期便はありません。)
村営の飛行場としては国内第1号なんだそうです。
ってか、第2号はあるのか? -
野生のクジャクがいっぱいいる!って事でしたが、
出会わないな〜と思っていると…白いクジャク?!
思わず凝視。やっぱりクジャク!しかも3羽いました。
後で民宿のお母さんに聞いたところ、白いクジャクは神様
の使いで見たら良い事があると言われていたそうです。
わーいラッキー♪一瞬喜んだのに〜
今は増えちゃって普通に見れるから…って(-.-) -
島の特産は椿☆
島内には椿がいっぱいで“カメリアロード”と呼ばれる場所もありました。
もちろんお土産はカメリアソープ♪
他には車輪梅(シャリンバイ)という木の実から抽出した
エキスを使用した飴があったので買いました。
三島村では古くからこの実を団子等に混入して
色や香りを楽しみ、重宝してきたそうです。 -
俊寛堂(庵) 以下、看板の内容。
俊寛は平安時代末期の僧。安元三年鹿谷荘にて平家討伐の陰謀がもれて捕らえられ、丹波少将成経、平判官康頼と共に鬼界ヶ島(硫黄島)に流された。治承二年中宮徳子の平産祈願のための大赦により、二人は赦免され召還されたが俊寛は一人許されなかった。いよいよ船が出る際、海水の中を胸まで入り船にとりつき、同行してくれるよう必死の頼みをしたが赦免状を持った使者丹左衛門慰基康は、俊寛の手を払いのけて一息に船を沖に漕ぎ出させた。号泣して足摺して頼んだ甲斐なく只一人残された俊寛は茫然として海を眺め、海岸に佇んだという。翌日は成経が形見にくれた夜具と康頼の形見の品、法華経とを背負い、とぼとぼと自分の粗末な庵へ帰った。俊寛は治承三年九月、娘の身を案じつつ絶望のはてに絶食して念仏を唱えながら三十七歳で死んだ。島の人々は、俊寛の死を哀れみ、三人を合わせ祭って俊寛の居住地跡に御祈神社を建てた。これを俊寛堂という。俊寛の霊を祭る柱松の行事は、俊寛の送り火として民俗学的に貴重な盆行事である。今なお長浜海岸で硫黄島地区の老幼男女総出の行事として盛大に行われ、その高さは二十米にも及び、空を焦がすその炎の光は遠く屋久島からも見えるという。 -
坂元温泉に行くか迷いましたが時間的に微妙だったので、
硫黄岳展望台に向かう事にしました。
が、関係車両以外通行禁止の看板があり、
歩行者も禁止っぽい感じ…やはり止めておきました。
特にHP等にも禁止とか書いてなかったと思うけど、
一応ね。
坂元温泉方面に行けば良かったなぁ〜
と思わなくもないが、のんびり行くか。
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坂元温泉は、四角いプールみたいな形をしており、
温泉よりも温水プールとしての利用が多いそうですが、
こちらは海辺の露天風呂って感じ☆
手前の温泉から順に奥に向かってお湯は流れており、
温度も手前から順に下がっていきました。
とは言え、一番奥でもけっこう熱め!
-
みしまジャンベスクール
ジャンベとは、西アフリカの民族の伝統打楽器で、達人はジャンベフォラと呼ばれ、自然の精霊と会話できるそうな…
なお、みしまジャンベスクールは、アジア初のジャンベスクールらしいです。
硫黄島は伝統的でありながらも、新しいものもどんどん取り入れる島のようですね。 -
天授の板碑(以下、案内板より)
以前はこの周辺に多くの古墓があったが、今は天授の板碑と近くの応永の墓だけが残っている。
板碑の正面の文字は梵字で一つはバンと読み金剛界大日如来を、もう一つはクーンと読み金剛夜叉をあらわしている。天授二年丙辰(1976年)の文字は建立の年を示している。天授は南北朝時代で南朝の年号である。
板碑は、鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のため建てられ、特に関東地方に多い。
この板碑は誰が何の為に建てたか不明であるが、長濱太夫家十代権之助吉近が父権太左衛門吉久の為に供養碑として建てたのではないだろうか。吉近は吉久五十歳の時にはじめて生まれた子供で大変かわいがられていたという。 -
えびす石
上の石には、こう書かれてました。
“この石、人の顔に見えませんか?
この公園を見守っているかのように思えてなりません。
だれがよんだか「えびす石」こしかけないでネ!”
はい!微笑んでいる人の顔に見えます(^_^) -
俊寛像
俊寛堂で説明を読んだ後だと、
どういう状況の像なのかよく分かりますね。
翌日の青空の下で撮った写真もありましたが、
夕暮れ時の薄暗いこちらの写真の方が
もの悲しさと言うか哀れさが増す…
ちなみに、後ろの建物は「みしま開発総合センター」です。
敬老の日のお祝いが始まるところで、踊りなのか劇なのか衣装を着た人達が集まってました。 -
壇ノ浦の源平の戦で入水したとされる安徳天皇は、
生き延びて硫黄島へ流れ着いたと伝えられており、
この熊野神社は、島に流れ着いた安徳帝が
晩年を過ごした皇居跡とも言われているそうです。
ちなみに、硫黄島には安徳天皇墓所もあります。 -
徳躰神社
“徳”が付くのでこちらも安徳天皇関係の神社かと思えば、
祭神は軽野大臣とだそうです。
軽野大臣は初期の遣唐使として中国に渡りましたが、唐の皇帝の怒りにふれて毒薬を飲まされ、言葉の言えない灯台鬼にされてしまいます。後に、息子が遣唐使として中国に渡った際の祝宴で、頭に燭台をのせて立つ灯台鬼が、目に涙をためながら、コッソリ自分の指を噛んで、その血で床に「燈し火の影恥ずかしき身なれども 子を思うやみの悲しかりけり」と書きました。
この歌で息子はこの灯台鬼が帰らぬ父の姿と分かり、唐亭にお願いしてその灯台鬼を貰い日本目指して帰国の途につきました。
途中、船は嵐に遭い硫黄島坂元に漂着します。弱った父の看護をしたいと村里へ向かいここまで連れてきましたが、衰弱のあまり大臣は息絶えてしまいます。そこでここに葬り、その霊を徳躰神社として祭り石祠を建てたとの事です。(以上、案内板より)
小さな小さな石祠です。ちょうど上の屋根が瓦一枚分ってところかな。 -
ブラブラと“冒険ランドいおうじま”へ。
ちょっとしたアスレチック公園を想像してやってくると、
緑に囲まれたキレイなキャンプ場でした。
ちなみに、ココは青少年の健やかな育成を図る為に、
鹿児島市が建設したものだそうです。
島の施設じゃなく、県の管理するものなんですね。
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