奥琵琶湖:お地蔵様と観音様に会いたくて
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- 旅行時期 :
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- 2011/08/19 - 2011/08/19
- (約9ヶ月前・1日間)
- エリア :
- 滋賀県>湖北(木之本・余呉)>木之本・余呉
- テーマ :
- 寺社・札所めぐり
- 投稿日 :
- 2011/08/27(約9ヶ月前)
- 写真 :
- 66枚
- コメント :
- 26件
奥琵琶湖(湖北とも言われますが)、観音様のふるさととして知られます。
私が、観音様に興味を覚えたのは、井上靖の「星と祭」や白洲正子の「十一面観音巡礼」などを読み、 得られた観音様の美しいイメージからですが、なんと言ってもこの地に住まう人々の心根の優しさが素晴しいと感じています。
2年前の夏、高月町の観音めぐりをして以来、2度目の観音めぐりですが、やはり期待通りのものでした。
厳しい暑さが続く中、観音めぐりなど出来るのかと心配していましたが、不思議なことに、朝方降っていた雨も上がり、最高気温も30℃を下回り、これも観音様の御利益なのかも知れません。
その他にも、普通では考えられないラッキーが続き、大満足の観音めぐりとなりました。
今回の観音めぐりは、レンタサイクルで回るつもりでしたが、トラベラーのrokoさんが車でご一緒いただけることとなり、大変助かりました。(合掌)
この日のコースは、次の通りです。
木之本地蔵尊 → 北国街道木之本宿 → 己高閣(ここうかく)・世代閣(よしろかく) → 医王寺 → 黒田観音寺 → 安念寺
2年前の観音めぐりはこちらです。
(前半)http://4travel.jp/traveler/morino296/album/10361882/
(後半)http://4travel.jp/traveler/morino296/album/10361894/
木之本観光案内
http://www.sushikei.com/kinomoto/
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木之本地蔵院(浄信寺) 本地堂
JR北陸線木之本駅下車から徒歩5分。
この日は、寺の裏側にある駐車場から入らせていただきました。
寺の歴史は古く、白鳳時代までさかのぼり、空海・木曽義仲・足利尊氏・足利義昭も参拝した記録があり、また、賤ケ岳の合戦では、秀吉がしばらく陣を置いたそうです。
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木之本地蔵院 名勝庭園
文部省指定の名勝庭園で地蔵堂奥、書院北側にあります。
江戸時代中期頃に造られた築山林泉式の庭です。
入口は裏地蔵尊参拝入口と同じ地蔵堂後ろの書院にあります。
書院の縁に座り、庭を眺めていると、心地よい風が流れていました。
寝転んで、昼寝するのも良さそうでした。 -
木之本地蔵院 本堂
開山は、奈良薬師寺の僧、祚蓮(それん)上人が、難波の浦に流れ着いた地蔵尊を背負い、地蔵菩薩の有縁の地を求め北国街道を下ってこられた時のこと。
休息をとった柳の大木の元から動かなくなった為、そこを有縁の地として伽藍を建立し、祀ったのが始まりと伝えられています。
木之本の地名もここに由来します。
お寺の歴史は古く、白鳳時代までさかのぼり、空海・木曽義仲・足利尊氏・足利義昭も参拝した記録があり、賤ケ岳の合戦では、秀吉がしばらく陣を置いていました。
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木之本地蔵院
秘仏である本尊にならった高さ6mの大銅像は、明治27年の建立で、日本で一番大きな地蔵菩薩です。
材料となる銅は、近在だけでなく全国の信者から供出された銅鏡が使われたそうです。
また、太平洋戦争の際には供出命令を受けましたが、「地蔵菩薩は信仰の対象である。」として当時の住職が拒否し、多くの人の援助もあって供出をまぬがれたのだそうです。
右目から涙を流されているようにも見えます。 -
木之本地蔵院 地蔵大銅像の足元に奉納された身代わり蛙
寺の池に棲む蛙がお地蔵様の願いにより、目を患った旅人に片目を与え、旅人は旅を続けることが出来たとの伝説があり、いまでもお寺に棲む蛙は片目をつむってお地蔵様に仕えて暮らしているといわれます。
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本陣薬局
地蔵院前の北国街道を少し歩くと、古い薬の看板が目に留まります。
旧本陣にある薬局で、当主は日本で第1号の薬剤師だそうです。
解説には以下のことが係れていました。
「旧本陣 竹内五左衛門家」
京都、江戸、北陸を結ぶ宿場の本陣跡。
藩政時代には、大名などが絶えず宿泊していた宿札の記録が数多く残っている。
また、将軍の息女、溶姫一行が滞在した時は、3千人分の寝具を助郷から集めたとの記録もある。
軒下の馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。
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富田酒造
450有余年の歴史ある「七本槍」の蔵元
解説によれば、
富田八郎家
先祖は昔北近江を治めていた近江源氏 佐々木京極。
下剋上で浅井氏が台頭し、天文2年(1533)当地へ移り住む。
以来、造り酒屋を営む傍ら庄屋をつとめ、教育・産業・福祉等 地域の発展に尽した。
明治天皇の北陸ご巡行の際、岩倉具視が宿泊。
母屋は延享元年(1744)建。
軒下柱馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。
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北国街道と北国脇往還の分岐点
右 京・いせ道、左 江戸・なごや道
北国街道は鳥居本で中山道から分かれ、ここを通り金沢に至る。
北国脇往還は、ここから関ヶ原、大垣に連絡する。
北国脇往還は、木之本宿から、名古屋・江戸方面へ向かう旅人が中仙道鳥居本宿を経ず、関ヶ原宿へ向かう近道として賑わった街道で、木之本宿の南端が起点となっています。
賤ヶ岳の合戦の際には、羽柴秀吉が大垣から木之本までの十三里(約52Km)を約5時間で駆けつけ、動揺した柴田勝家軍との戦いに勝利した「大垣大返し」として知られます。 -
北国街道は、北陸と近畿を結ぶ陸路として栄えました。
その街道沿いに位置する木之本宿も、大名行列や飛脚などの人々が行き交ったといいます。
木之本宿には昭和の初めまで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していましたが、現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残しています。
また、室町時代から昭和の初期まで毎年2回、街道の民家を宿として牛馬市が開かれ、江戸時代には藩の保護を受け、地元近江をはじめ、丹馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから数百頭以上も牛馬が集まり盛況を極めたそうで、歴史に名を残す名馬を数多く輩出し、山内一豊が妻の備えていたお金で買い求めた名馬もそのひとつと伝えられています。 -
己高庵 石田三成ゆかりの”三献の茶”碗
説明によると、
ここ木之本町では毎年秋に「賤ヶ岳天下まつり」が開催され、秀吉と三成の出会いとして有名な「三献の茶」にちなみ、町民1万人の大茶会にと野焼きで出来上がった大茶碗だそうです。
「三献の茶」の舞台として、木之本町古橋の法華寺は、石田一族に因縁の深い寺で、関ヶ原の戦いに敗れ、逃げ隠れたといわれる洞穴も寺の近くにあるそうです。(今回は、訪ねませんでした。) -
己高閣(ここうかく)
かつて己高山(こたかみやま)にあった鶏足寺などの寺々は火災で焼失しましたが、災難から逃れた仏像や書物を納めるため、昭和38年に建てられた滋賀県最初の文化財収蔵庫です。
その中には、鶏足寺の本尊であった十一面観音立像(重文)、法華寺の薬師如来立像、不動明王、毘沙門天ほか20体ほどの仏像が安置されています。
仏像の写真は撮れませんので、こちらのHPでご覧ください。
http://www.biwa.ne.jp/~yumekosh/kokohan/kannon.html -
世代閣(よしろかく)
平成元年秋に開館、町で建てたものだそうです。
世代山戸岩寺の薬師如来像立像(重文)、乾漆十二神将立像3体(重文)、魚籃観音はじめ多くの仏像仏画や古文書類、お市の方が奉納したと伝わる屏風などが納められています。
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與志漏神社
祭神:神速須佐之男命 波多八代宿禰命
解説によると、
草創年月日は不詳であるが社伝によると世代大明神として古代から東西二里、南北五里に及ぶ余領(よしろ)郷の氏神として崇敬される大社であったそうです。
祭神の波多八代宿禰命は、古事記・日本書紀では武内宿禰の子、淡海(近江)臣の祖と記されているそうです。
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旧戸岩寺 薬師堂(與志漏神社の前にあります。)
世話役の人から、お堂の中を覗いて見なさいと勧められ、賽銭入れの窓から覗いて見ると、本尊を拝むことが出来ました。
霊亀2年(716)創建、本尊は薬師如来。
僧行基によって西方の伊香山五ツ岩の麓からこの地に遷された岩にちなんで戸岩寺と名付けられたそうです。
8世紀末頃から、伝教、空海、慈覚などの高僧が来錫し、七間4面の薬師堂をはじめ大日堂、観音堂、鐘堂、経堂、念仏堂などを建立。
全盛期には、六坊を構え、常時30名前後の僧が修行していたそうです。(解説より) -
己高山・鶏足寺 鳥瞰図
平安から鎌倉時代にかけて、山岳信仰の霊場として隆盛を極めた己高山(標高922m)。
かつて山中には数多くの寺社が存在しましたが、時代の推移とともに次々と無住あるいは廃寺となりました。 -
己高閣・世代閣をお世話されている当番の皆さん
毎日、観音様に接していらっしゃるせいでしょうか、皆さん優しいお顔でとても親切でした。
この後に向かう医王寺の当番の方へ電話をかけていただき、道順も丁寧に教えていただきました。 -
医王寺 観音堂
数奇な運命で医王寺の本尊となった十一面観音は、明治時代に栄観和尚が古物商から買い求めてこの寺に安置したのがはじまりと言われます。
明治初期の廃仏毀釈によって、どこかの寺に祀られていた観音様が古物商に流れたものなのでしょうか。 -
医王寺
電話でお願いしておくと、当番の方が観音堂を開扉してくださいます。
この日は、我々の他にもう一人拝観されたそうです。
直前の電話でしたが、ラッキーなことに当番の方がいらっしゃったので観音様を拝めましたが、前もって予約されることをお薦めします。
当番の方に、この後、どこへ行けばよいかも教えていただきました。
有難うございました。 -
黒田観音寺
この観音様は、十数件のお宅が年番でお世話をされています。
当番の方の連絡先に電話を掛け、お願いしたところ快く受けていただけました。
いつ訪ねてくるか分からない拝観希望者にも、嫌な顔もせず応対していただけました。
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黒田観音寺 千手観音立像の解説
一本木造の千手像は平安時代初期の物で、准胝観音と見ることもできると言われています。
扉が開くと199cmと長身の観音様の迫力に思わず「わーっ」声が漏れました。
「奥琵琶湖 観音路」というガイドマップによれば、この黒田地区には、安念寺と大沢寺に漢音様がいらっしゃるとのことで、次は安念寺を目指し標識もない細い農道を走ります。 -
安念寺
近くに標識もなく、曲がり角に小さく「安念寺」の表示があるだけです。
近づいてみると、門は施錠されており、連絡先も分かりません。
拝観を諦めて、Uターンして大沢寺へ向かおうと、偶然いらっしゃった奥様に道を伺うと、「うちの観音様を拝んでください」との返事があり、ご主人を呼び出し、安念寺を案内していただくことになりました。
超ラッキー!道を尋ねなければ、安念寺の観音様にはお目に掛かれなかったのですから。 -
安念寺
賤ヶ岳の山裾に佇む寺で、聖武天皇の時代、神亀3年(726)詳厳法師の開基とされます。
詳厳法師は時の右大臣藤原不比等の庶腹の子供で藤原一族の中で栄職に就いていたが無実の汚名を受け、世をはかなみ僧となり、この地に草庵を建てて仏像を祀ったと伝わります。
以来、藤原家で帰依する者が当地に来て永住し、その末裔が現在もお守りしているのだそうです。(解説より) -
安念寺の解説
元亀元年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、比叡山の流れをくむ湖国の天台宗の寺々が焼かれ、末寺てある当寺も兵火にかかり一塔が焼失したが、仏像は門前の田の中に埋めて隠していたため焼失を免れました。
約250年後の文政年間(1818〜1830)に田の中から村人たちが掘り出し、余呉川で洗い清めましたが、土の中で長い年月を経たため開眼当時の美しい奈良朝時代の姿は見られなくなりました。
明治の中頃まで、余呉川で仏像を洗った習慣が残り、夏には子供たちが仏像と川遊びをして楽しんだそうです。
仏像の姿が木心だけのものもあり芋のように見えることから、別名「いも漢音さま」と呼ばれるそうです。 -
安念寺
田の中から掘り出された仏像は17体でしたが、平成12年〜15年の間に7体の仏像が盗難に遭ったそうで、現在は10体となってしまいました。
また、この日は、3体の仏像が長浜市・高月観音の里歴史民俗資料館へ展示されていてお留守でした。
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110428000044
仏像泥棒は、仏像を運び出す際に乗っていた車が川の中に転落したそうです(罰が当たったのでしょうか)。
当時、泥棒と知らず、近所の人たちが助け上げてやったそうです。
その後、犯人の目星がつき警察が家宅捜査に入ったそうですが、仏像は見つからず終いとなっているそうです。
戦火を逃れた仏像は、いったいどちらにいらっしゃるのでしょうか。
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