2012/04/08 - 2012/04/08
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ドクターキムルさん
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鎌倉市山ノ内尾藤谷には尾藤影綱亭があったと伝えられ、横須賀線のトンネル前までやぐらが見られる。踏切とトンネルの間には民家が1軒と墓地があるが、この墓地までやぐらがある。この横須賀線沿線には人が殆んど入り込まない鎌倉では珍しい場所だろう。墓地の上にも平地があるが、草茫々で所々に畑がある。たとえば、トンネルの脇とかに30cm×1m程度を耕してエンドウ豆を植えている。ここにバイクで通って畑の手入れをしているおばさんがいて、これらの穴は皆な防空壕の跡だと言う。しかし、お墓にもありやぐらであろう。踏切近くの入口が埋められている穴はおそらくは防空壕跡であろうか。
トンネルの上から消えかけている尾根道を進むとトンネルを越えてこのやぐらのある崖の上にある民家(かつて小津安次郎(映画)監督が住んでいた家)に辿り着く。ここには3軒の民家があり、トンネルの坂を下りて浄智寺横の駐車場に出て車で出かけるようだ。
谷戸の名となっている尾藤氏はかつて高井郡中野牧の領主で、平治の乱では源義朝の家人として仕え、その敗戦で領地は没収されている。元々信濃であれば木曾義仲軍で活躍し、頼朝に属すのは諏訪氏同様、遅かったようだ。
信濃武士の多くは、義仲軍に属し頼朝と敵対する立場となり、鎌倉幕府草創期には冷遇された。その後、北条氏が信濃守護となるにつれ、北条氏自身も有力家臣団が不在でもあり、信濃武士達も御家人としての展望が開けず、寧ろ北条得宗家御内人に活路を見出した。尾藤景綱は、和田合戦のころから北条泰時の側近として仕え、承久3年(1221年)に起きた承久の乱では泰時軍に属し上洛している。その後は北条得宗家の家令(内管領の前身)に就任して、諏訪盛重、平盛綱ら御内人と共に北条家の重臣となった。
また、和賀江嶋の工事は平盛綱・尾藤景綱・諏訪兵衛尉らの監督で、相模国西部や伊豆国の石を海路で運んで順調に進み、20余日で築かれた。
嘉禎 2年(1236年)に泰時の邸宅が新造されると、尾藤景綱は諏訪盛重と共にその敷地内の北条屋敷横に屋敷を構えたとされる。伝尾藤影綱亭であって、伝尾藤影綱邸でないのはそうしたことであろう。
(表紙写真は尾藤谷のやぐら)
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